◎算法少女

 

◎壷中隠者序[1]

【原文】

題算法少女

夫數之於六藝也猶橘之於六君與何則禮樂射御書由是而達苓朮甘夏匪彼不行故小技而列于藝林賤者而厠乎君子嗟術之妙貴老之名不亦宜乎余家本攝州世隠乎藪澤刀圭之暇旁及斯技釣玄探幽忘食忘憂假以歳月頗臻其妙甞有故而東又有故而西鱸蓴之思雞黍之期不遠千里而來而徃不遑寧處栖栖遲遲葢有年矣近卜居于東都城東自號壺中隠者葢世人擇醫貴老爲常恐於余與改焉斯書也甞口授少女彼輯而爲巻且請為之名余閲之曰斯甞口授者也乎曰然然則其功在余名以貴老與雖然女集而為巻其勒在女當以少女少女為妙後人或讀斯編則益信術之妙乎有智無智違以三十里余於斯序亦云
安永乙未之冬
壺中隠者

【訓読】

算法少女に題す。

それ数の六芸におけるや、猶(なお)橘の六君[2]におけるがごとし。なんとなれば礼楽射御書は是(=数のこと)によりて達し、苓朮甘夏は彼(=橘のこと)に匪(あら)ずんば行(めぐ)らず。故に小技にして芸林(げいりん=学芸の社界)に列し、賤者にして君子に厠(まじ=廁、混)る。嗟(ああ)、術の妙は、貴老(きろう=橘皮の別名)の名もまた宜(むべ)ならざるか。余が家は、もと攝州、藪澤(そうたく=草木が茂る沢)に世隠す。刀圭(とうけい=さじ。転じて医術)の暇(いとま)、旁(かたわら)この技に及び、玄(げん=老子のといた道の本質)を釣(さぐ=鉤)り、幽(=深遠)を探り、食を忘れ、憂いを忘れ、歳月をもって假(=借)り、頗(すこぶる)その妙に臻(いた)る。かつて故ありて東にゆき、また故ありて西にゆき、鱸蓴(ろしゅん)の思い[3]、雞黍(けいしょ)[4]の期、千里を遠からずとして來りて徃(ゆ=往)き、遑寧(こうねい=ひまがあって安んずる。遑安)するところなく、栖栖遲遲(せいせいちち)[5]、けだし年あり。近ごろ東都(=江戸)の城東に卜居(ぼくきょ=居所をさだめる)し、自ら壺中隠者[6]と号す。けだし、世人は医(=医者)を擇(えら)び、貴老(=橘皮)は余が与える改(=薬の処方、治療)より常に恐(おそ)れらる[7]。この書たるや、かつて少女に口授し、彼(=彼女)[8]、輯(あつ)めて巻となし、これがために名を請う。余、これを閲(み)ていわく「これかつて口授するものならんか」。(彼女は)いわく「然(しか)り」と。然れば則ちその功、余に在り、貴老をもって名とせんか。しかりといえども、女、集めて巻となす。その勒(ろく=くつわ、おさえ)は女に在り。當(まさ)に少女をもって、少女、妙をなすべし。後人、或(あるい)はこの編を読めば、則、益(ますます)術の妙を信ぜん。有智と無智の違いは、三十里をもってす[9]。余ここにおいて序し、また云う。
安永乙未(1775)の冬
壺中隠者

 

◎平氏序[10]

たらち雄(=父親)過にしころ。物語し給ひけるは。浪速のことのよしあしにつけておもい出させける。いまた(=いまだ)十あまりよつ五の比(=ころ)からよ。彼邦の人ひたすら竹弄の術を翫ひ(=もてあそび)。中にも事好めるおのこ。むつかしの問を設けて。やんことなき額にしたゝめ。或は梅か香(=梅が香)の天満る(=あまみつる、天満宮)神垣に。或は枯木たも(=だも)花咲(=はなさく)法の場に。所せく懸並へ。その答をまちけると南(=なん)しかはあれと。根なし草の岸をはなれ。かひなき舟の流れにまかせ。爰(ここ)かしこともの狂はしきさまにて。享保の末。元文の初つかた。わきてさかり成りしとなむ。されとその答術を仕出したるは。三たり(=3人)とはなかりけるとかや。たらち雄も嗜みたまへることなれは。春の日猶暮れやすく。秋の夜はやく更行(=ふけゆく)。時鳥(=ほととぎす)の初音も聞(=きき)やらて(=やらで)。窗(=窓)に積れる雪たにも(=だにも)しらぬ顔に。夜昼となく年月を送り。終(=つい)にその答術を施し。指折たまへは(=たまえば)十つゝ五にあまりける。それか中におかしく勝(=すぐ)れたるは。十あまり五つとこそ聞へ侍る。このこときゝしより。実や怖しき物かたりはいとゝ(=いとど)きかまほしく。又目にふれぬもの事はいやましに見まほしきは。おふな(=女)童の習ひ。せちに乞て。或は口つから授けたまひ。又は記し置れけるなと(=など)出したひて翫ひけるゆへ。あまたのかす(=数)をもよせ習ひ。乗除のわさ(=わざ)をも手なれ侍る。去(=さる)によつて覚し事共三つ四つ五つむつかしからぬ術に。及ひなき水の月とる猿沢の池にたくえ(=類)[11]。心なきうき雲を木曽の桟(=かけはし)として。つたなき水茎に浪の藻くす(=もくず)かきあつめ三つ巻となし侍る。又或時我
日の本の算書の事委しく語り給ふは。むかし昔算俎(=村松茂清の『算俎』)を初め。古今算法(=沢口一之の『古今算法記』)には三五の新月にたくへる(=たぐえる)問をのせて。此答術は見ぬ唐の聖の国にさえ知れる人なき。演段の妙なるを。関の東にては関氏の発微(=関孝和の『発微算法』)。宮こ(=都)にては宮城の和漢(=宮城清行の『和漢算法』)世に行れ。其后算法樵談(=鎌田俊清の『算法樵談集九問演段』)のあまたの問を。穂積以貫答へて下学(=穂積以貫(興信)の『下学算法』)有。これを吾妻の青山氏。中学(=青山利永の『中学算法』)もて答。夫(=それ)より洛陽の竿頭(=中根彦循の『竿頭算法』)。摂津の探玄(=入江脩敬の『深玄算法』)。厳嶋の便蒙(=中尾斉政の『算学便蒙』)。瓊浦の闡微(=武田済美の『闡微算法』)。みな藍よりもあをく(=青く)。水よりもさむきよし。其外牛に汗し棟に充るに等しく。又泯江入楚の。末しら浪の立居に願ひよりて。自問自答とておかしくひめ置給へるを。ひとつ二つ其外覚し事とも書添て。答を見まほしくこそおもひ侍る。誠やたらち雄の年月。この藝に心を筑波山の。このもかのものしけき(=繁き)か中にも。その奥に深くわけ入りたまひし心つかひの程を。同し心の人々此の書によりて知給へかしと。つたなき筆とりて。数の言をつゝり。巻の初に置侍るのみ
安永よつのとし(1775) 霜月十日 たいら氏序

 

◎一陽井素外跋[12]

医師平氏の女(むすめ)、かそ(かぞ=父)に学へる数々を筆にとゝめいろ[13]の教への糸もて三冊子となし置(おく)るか(=が)、かそ(=父)の翁の心、壹々を世にも知らせまほしく、梓にちりはむる(=鏤むる)に及んて(=で)、後席のぬしとなれよとや。やつかれ(やつがれ=自己の謙称)、三さかり(=三味線の三さがり?三つさかり?みさかり、真っ盛り?)の頭とり(頃より?)、俳諧の言種(ことぐさ)そ(ぞ)のみ遊ひて五七五の外、数の道をしらす(=知らず)。もつて知らさるとは、なまはしる(=生恥じる)人のしるへき(=知るべき)便をいたつらに(=徒に)ひめ(=秘め)置(おか)なむと諾して[14]、有の儘(ありのまま)の辞をそ申(もうす)。我に等しくしらさる(=知らざる)人は、女か(が=の)孝の志をなむ覺(おぼえ)給へと、一陽井素外、しかいふ(=云爾)。
安永乙未(1775)冬十二月

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[1] 白文。

[2] 柑橘類の皮を干した橘皮(きっぴ=陳皮)は、他の(しん=人参)、茯苓(ぶくりょう)、白朮(びゃくじゅつ)、甘草(かんぞう)、半夏(はんげ)の五薬とあわせて六君草とよぶ。橘皮は他の薬の働きをたすけ、体中に薬を行(めぐ)らせる。以上、橋岡龍也氏の教示による。中村謙介『和漢薬方意辞典』によれば、「六君子湯」が明の薛己の著にある由。赤堀昭『漢方薬』は六君子湯が『万病回春』にあるという。

[3] 故郷に帰りたいと思うこと。蓴羹鱸膾(じゅんこうろかい)の思い。晋の張翰が、故郷の名物である、じゅんさいの吸い物とスズキのなますを味わおうとして官をやめて帰郷した故事にもとづく。『晋書』張翰伝。

[4] にわとりのあつものと黍の飯をたく。人を接待すること。『論語』微子。

[5] 栖遲(せいち)は、官職などにつかずゆっくりと人生を送ること。

[6] 壺公(ここう)は、後漢の仙人で、薬を売り、商売を終えると店頭の壺の中に飛び込み、酒を楽しんでいたという。この故事より、別世界を壺中天(こちゅうてん)という。

[7] 貴老爲常恐於余與改焉」を受身の語法として訓読した。「余與改」は、與は於と同じと解釈し、「改における余」と読むのかもしれない。

[8] この「彼」は、江戸時代に三人称は存在しなかった、とする説の反例になっている。

[9] 曹娥碑の碑背の八字をみて、楊脩はすぐに解し、魏の武帝は三十里すぎたのち、さとった故事。有智無智校(くら)ぶれば三十里。『世説新語』にみえる。

[10] 漢字かな交じり文。草体。句点あり。

[11] 謡曲『采女』。「我妹子(わぎもこ)が寝くたれ髪を猿沢の池の玉藻とみるぞ悲しきと、叡慮にかけし御情かたじけなやな下として君をうらみしはかなさは、たとえ及びなき水の月とる猿沢のいける身とおぼすなよ」

[12] 漢字かな交じり文。草体。

[13] 「筆にとどめ、いろの教え」と「めいろの教え」の掛詞。いろは、母とされる。めいろは、蘇迷盧(そめいろ)すなわち高いものの代表として須弥山のこと。

[14] 「だくして」または「がえんじて(肯)」と読むか。