◎精要算法

 

◎林信有序[1]

【原文】

精要算法序

藤田定資字子證者性頴悟而好數學精絶久留米羽林侯之臣也属者著算法一書焉侯雅好數學覧所著書稱歎之賜名精要算法請序於余々聞子證受業於山路子以此出仕于矦焉山路氏之子廷美嘗與余交善廷美没而不復聞其餘論也久矣子證所著一出而人皆知山路子之門有人哉余雖不知數學也侯之精絶于數世倶所知而侯家選衆而擢子證於山路子之門子證以高第優仕得其君今之所著書觀之則其術之精可知已但其書之爲精々其道者自有論定焉爾余囙爲之序亦有感于廷美哉若夫裨益于學者與爲世之有用則未遑具論也
安永庚子孟夏
経筵講官林信有撰

【訓読】

精要算法序

藤田定資、字(あざな)子證は、性頴悟(=英悟)にして、數學の精絶を好み、久留米羽林侯[2]の臣なり。属者(このごろ)算法の一書を著し焉(おわん)ぬ。侯、雅(まこと)に數學を好み、著す所の書を覧て、これを稱歎(=賞嘆)し、精要算法と賜名(しめい)し、序を余に請(こ)う。々(余)、子證は山路子に受業し、これを以て矦(=侯)に出仕すと聞く。山路氏の子、廷美(=山路之徽)、嘗(かつ)て余と交善し、廷美没して、また其の餘論(=追加の論議)を聞かざること久し。子證著す所、一(ひとた)び出(いで)て、人皆、山路子の門に人有るを知る。余、數學を知らずと雖も、侯の數に精絶、世の倶(とも)に知る所にして、侯家、衆より選んで山路子の門より子證を擢(ぬきん)ず。子證、高第(こうだい=役人の勤務の優良なもの)を以って、優(あつ)く其の君に仕え得る。今の著す所の書、これを観れば、則、其の術の精、知るべきのみ。但(ただ)其の書の精々(=最大限に)其の道を爲すは、自(おのずか)ら論定あるのみ。余、因りてこれが爲に序す。亦、廷美に感(=感謝)有るかな。若(も)し夫(そ)れ學者と世の有用のため裨益(=寄与)せば則、未だ具論(=詳論、これ以上の論議)を遑(いそ=急)がざるなり。
安永庚子(9年(1780))孟夏(=4月)、経筵(けいえん=天子が経書の講義を聞く席。昌平坂学問所)講官、林信有[3]、撰ぶ。

 

◎田中貫夫序[4]

【原文】

精要算法序

先王教民以六藝、而數有九章之法也、上自天地陰陽日月星辰造化之工、下至井田經界律度量衡賦税之制、舟車所至、人力所通、天之所覆、地之所載、華夏蠻貊、無不依焉、而似鼻似口似耳似枡似圏似臼、似洼者似汚者、長者短者廣者狭者、無不由此以明也、實是經世治國之用、不可一日無者也、藤田君定資、天質頴敏、以数鳴世、自其釋褐於我藩、麾諸生建旗鼓久矣、而其所著之書三編、欲壽諸棗梓以施同志、謹請我
公之名之、
公嘉其志、乃賜名曰精要算法焉、盖
公亦好數、於其妙也、一世已稱歎之、則不啻恩眷之腆、又此書精而要不置喙可知已、顧此書専欲便於學者、故近借商賈貨買之言以立術、臭味之士、擴而充之、則天地之大也、萬形之不同也、無不徴而盡者、至其嘗臠肉以識鑊中之味、則固在讀者云、
安永八年己亥九月
久留米 田中一貫夫撰

【訓読】

精要算法序

先王(=古代の聖天子)、六藝(りくげい=礼楽射御書数)を以って民を教え、而して數に九章の法、有るなり。上は天地、陰陽、日月、星辰、造化の工より、下は井田(せいでん=周代の田制)、経界(けいかい=土地の境界)、律(=法律)、度量衡、賦税の制、舟車の至る所、人力の通ず所、天の覆う所、地の載す所[5]、華夏(かか=中華の国)蠻貊(ばんばく=夷蛮の国)に至るまで、これに依らざるはなし。而して鼻の似(ごと)き、口の似き、耳の似き、枡(ます)の似き、圏(わ=輪)の似き、臼(うす)の似き、洼(わ=窪み)の似きは、汚(お=水たまり)の似きは、長は、短は、廣は、狭は、此に由(よ)らざるなきは、以って明らかなり。實に是、経世治國の用、一日(いちじつ)として無くべらからざるもの也。藤田君定資、天質(=天性)頴敏(えいびん=鋭敏)、数を以って世に鳴り、自(みずか)ら我が藩にその褐(かつ)を釋(と)き(=仕官する。釋褐(しゃっかつ))、諸生を麾(さしず=指図)し、旗鼓を建つこと久し。而して其の著す所の書三編、諸棗梓(そうし=ナツメとアズサの版木)を壽(ひさし=永く刻む)うし、以って同志に施さんと欲し、我が[平出]公のこれに名づくを謹んで請う。[平出]公、其の志を嘉(よみ=褒)し、乃(すなわち)賜名(しめい)して曰く精要算法と。盖(けだ)し、[平出]公、亦(また)其の妙に於いて數を好むなり。一世(いっせい=当代)、已(すで)にこれを稱歎(=賞嘆)せば則、啻(ただ)に恩眷(おんけん=恩恵)の腆(てん=ねんごろな様子)のみならず、又、此の書、精にして、喙(かい=くちばし、言葉)を置かざるを知るべきのみ。顧(また)此の書、専ら學者の便(たよ)りにせんと欲す故に、近き(=身近な)借商賈(こ)貨買の言を以って術を立つ。臭味(=同じにおいをもった仲間、同好の士)の士、擴げてこれを充せば(=拡充すれば)則、天地の大たるや、萬形の同じからざるや、徴(あきら)かにせざる無くして盡(つく)すものなり[6]。其の臠肉(れんにく=切り身)を嘗め、以って鑊(かく=釜)中の味を識るに至る[7]は則、固(もと)より讀者に在りと云う。
安永八年己亥(1779)九月、久留米、田中一貫夫[8]、撰ぶ。

 

◎藤田定資自叙[9]

精要筭法自叙

蓋(およそ、これ=発語)數たるや、清濁上下に分れてより、一、二を生じ、二、三を生じ、三、萬物を生じて[10]、天地の間、自然にして[11]、これ有るものなり。數すでにここに有り、即ち指を屈してかぞふる、これまた濫觴とせんか。然らば策を敷き、以ってかぞふるもの何れの世にか、それここになからんや。三皇五帝氏[12]は邈(ばく=遥か)たり。今いささか此れを置く。三代(=夏殷周)より日月星辰を歴象し、原濕(げんしゅう=原は高く平らかな土地、濕は低く湿っている土地)封彊(ほうきょう=領土、国境)を経営し、度(=長さ)量(=面積、体積)權(=秤のおもり)衡(=秤、重さ)を考定する、其(そ)れこれを弃(すて=棄)て、何を以てか是をして違はざらしめんや。故に先王(=古代の聖天子)、天下國家を平治するの道を立て、曰(いわく、ここに)禮樂射御書數と、其の大(おおい)に天下國家に益するもの、以て知るべきのみ。而して春秋の時、魯亥に二首六身有るのことを聞て、謂(おもえ)らく、晋、人多し、未だ携(そむく)べからざる也と[13]。これ筭數を以て國の重きをなす。見るべきかな。豈(あに)唯(ただ)會計の益あるのみならんや。而して秦漢以後、筭數を以て世に洛下生が如きもの勝(あげ)て記すべからざる也。彼皆、天下國家の用を給せしもの少からざること、其の書書について見て而して知るべきなり。仰(そもそも)我が[平出]東方三善氏、始て大學寮に入(いり)てより、世世其の人を妙選して、其の職に登用す。以て我が天下國家に益(えき)無(な)くんば、我が[平出]先王、何ぞ銓曹(=選考に同じ?)の吏を勞せん、何ぞ平安の米を費(ついや)さんや。然るを近世、是を小吏(=小役人)賈人(かじん、こじん=商人)の為とするものは、是を知らざるがため也。然るを中古以來、寥寥として其の人に乏しきものは、勝國(=亡ぼされた前代の国)より以徃(いおう、このかた=以往)、諸侯割據(=割拠)し、干戈(かんか)あい加へ、海内(かいだい=天下)麻の如く亂るるもの數百有餘年、時に我が[平出]東方の文物、地を拂(はらい)て盡(つ)く。筭數の道も此れとともに塵土となるか。而して慶長の年、海内一に帰し、干戈を裹[14](つつ)み、弓矢を鬯(のば)して戰陳(=戦陣)の氣、消亡[15](しょうぼう)す。則、文教を宣布して、盛徳遠く海隅に及ぶこと百有餘年、終(つい)に其の光澤に胞胎せられて、我が關夫子孝和、爰(ここ)に生る。夫子は天授の才、命世の器(=一世にひいでた名高い人)、六歳の時、人の會して敷筭するものを見て曰く、某は第一策を失し、某は第二策を失すと。蔡文姫(さいぶんき)[16]が絶弦を指(はじく)が如く、人人愕然として其の面を仰ぎ、喟然(きぜん=ため息をつくさま)として之を賞歎し、以て此れを奇異とす。即ち長ずるに及(およん)で、師無くして筭數の奥妙を極むるものは、古人の所謂(いわゆる)文王(=周の文王)無しと雖、豪傑は猶、興ると云(いう)もの、其れ夫子の謂(い)いか。又、旁ら天官(=天文)暦日を學んで、盡(ことごと)く其の大義を知り、中歳(ちゅうさい=中年)より白首(はくしゅ=老年、しらが頭)に至りて、神を焦がし(=焦心)、思いを極めて、演段諸約翦管招差及び角術圓法弧背立圓の術、之を肇造(ちょうぞう)し、又、筭題に逢うて千化萬變(=千変万化)、自在をなすべきもの又、天官暦日其の他凡(およ)そ筭數に與(あず)かるべきもの、古人未だ發せざる天地の間に秘する所、夫子初(はじめ)て悉(ことごと)く之を發し、卒(つい)に以て之を輯録し、門を分ち、類を聚(あつ)めて數百巻の書となし、以て後進の由路(ゆうろ=たよるべき道)となす。ここによつて我が[平出]東方、數を言うもの、之を關夫子に本(もと)づく。夫子、之を荒木子村英、建部子賢弘に授(さず)く。荒木子は之を松永子良弼に授け、建部子は之を中根子元珪に授く。而して關夫子の書、其の雜記なるもの、夫子、荒木子と未だ校讎(こうしゅう=校訂)に遑(いとま)あらずして、而して止(とど)むもの、松永子、盡(ことごと)く之を校讎し、略々(ほぼ、およそ)己の意を加えて、關夫子の書、以て大(おおい)に成る。又、久留島子義太、未だ數を知らざるの時、始めて筭書一、二篇を取りて一誦(いっしょう=一読)してことごとく其の義を知りて、能(よ)く筭數の壼[17]奥(こんおう)を言う。即ち徒衆(=生徒)又(また)盛にして、是に由て數に久留島學有り。我が先師山路先生主住、始(はじめ)業を中根子に受け、後、久留島子に師とし事(つか)え、最後に松永子に弟子(ていし)たり。先生、沈審(ちんしん=沈深)頴悟(えいご=英悟)、且つ資性篤實なり。即ち三君子(=中根・久留島・松永の三人のこと)ことごとく帳中の秘を授けて遺(のこ)すことなしと云う。夫(か)の久留島子、實に仙才と云うといえども、其の性、不羈、其の書、甚だ少なし。是においてか、一家を立つべからず。先生、其の緒言妙語を以て關夫子の學に合わして、用いて門人に授けるや、天下の大師と稱せられ、徒衆尤(もっとも)盛んなり。然れども先生、謙遜退讓の質、常に曰く、著述上木(じょうぼく=出版)するもの關夫子及び五君子(=建部・荒木・中根・松永・久留島)其の高足の弟子(=高弟)の他は不可也、奈何(なん)となれば、近世上木する所の筭書、是を見るに、杜撰(ずさん)妄誕(もうたん=嘘、いつわり)、勝(あげ)て道(い)うべからず。此れ獨自(ひとり)笑みを取るのみに、夫(か)の人の子(し)を賊(そこな)う也と。故に自著するところの書といえども以て此れを公(おおやけ)にせず。然れども我(われ)定資、先生に従(したがっ)て學ぶの久しき、先生、關夫子より三傳して之を得、他に傳(=伝)うべからざるの秘書、悉く之を授け及び、久留島子の奥秘をさえに(=でさえも)。而して定資、以爲(おもえ)らく關夫子起こりてより今に百有餘年、我が[平出]東方の筭數一變して道に至るといえども、天下の廣莫なる數は先王六藝の一に置くものにして、小吏賈人の為と謂(おもえ)るもの少なからざるや。定資、關夫子の道を擴めて、彼(か)の廣莫のところに充(みち)て、之を知るものをして多からしめ、以て、先生、山高海深の恩に報ぜんと、則ち書數巻を編して、之を天下に公にし、其の知らざるもの始めて見て此れを覆醤(ふくしょう=味噌のかめを覆う反故紙。自作の著述の謙称)とせんとするも、漸(ようや)く以て之を知り、我が為に終(つい)に左袒(さたん=味方)せんこと、必ず然らんか(=必ずそうなるであろう)。これ關夫子より我(われ)四傳して之を得たるの道なれば也。
安永八年 (1779) 己亥、初秋(=7月)、米府(=久留米藩)筭學士、雄山、藤田定資子證甫[18]識(しる)す。

 

◎安嶋直圓跋[19]

精要算法跋

久留島先生曰く、凡(およ)そ數學は問を設るを難しとす、術を施すは是に次ぐ、今、暦術を以て問と爲すこと筭題の得がたきより起れりと。信なる哉、近世筭題を見るに徒(いたずら)に和を増し、乗を累(かさ)ね、題中に数乗の開方商を錯(まじ)えて容易に術を施(ほどこ)しがたからしむ。是、所謂(いわゆる)筭題の得がたしを困(くるし)んで巧をなす者なり。是を名づけて煩題と云う。題意謬(あやま)りなしといえども、勞して功なし。或は題辭足らず、或は題辞餘りありて、大に損益すべき者あり。是、題辭に各定数あることを知らずして謬りをなす者なり。是を名づけて病題と云う。此の如くの類、皆、術を施し、数を試さるが故なり。自ら謬ることを知らざるのみにあらず、更に初学の工夫を費やさしむ。又、世を惑わすのみにあらず、己(おの)れも亦、大いに惑える者なり。予が友、藤田子、これを憂へ、これを慮(おもんぱか)りて、彼(か)の賣買賃借等の筭題より此(かの)方圓容術等の雑題に至るまで、理の深遠にして術の簡なるもの百餘條、自ら題を設け、術を施して、初学をして賣買貸借の類といえども方圓容術の類と同じく筭題となすべきことを知らしめんがため、書数篇を著す。書、成りて、予をして校訂せしむ。其の書たるを見るに、繁を芟(か=刈)り、要を括(くく)りて、関夫子の深意奥妙、悉(ことごと)く術中に含めり。初学ひとたび是を観て、引て之を伸ばし、類して之を長せば、題を設けて煩ならず、従って術を施し得ば、自(おのずか)ら其の妙に至らんか。因(より)て、これが後(しり)べに書す。于時(うじ、ときに)安永八年(1779)己亥、秋八月、安嶋直圓伯規撰。

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[1] 白文。

[2] 久留米藩主の有馬頼徸のこと。羽林は公卿(くぎょう)の家格のひとつ。

[3] 伝は『寛政重修諸家譜』巻七百七十一。

[4] 句点(批点)のみ。

[5] 『管子』侈靡(しび)。「天之所覆、地之所載、斯民之良(やしない)也」。『算法求積通考』の巻頭を参照。

[6] 訓読不詳。盡者は「ことごとくするもの」と読むか?

[7] 『淮南子』説林訓。「嘗一臠肉、知一鑊之味」。一部から全体を知る喩え。

[8] 文末にある印鑑から、「貫夫」が諱(いみな)と考えられる。

[9] 漢字カタカナ交じり文。一部に訓点。

[10] 『老子』第四十二。

[11] 原文は「自然ニシテ而」。而は読まない。

[12] 古代の帝王。『史記』五帝本紀。

[13] 『春秋左氏伝』襄公三十年。絳縣老人(名は亥)が年齢をたずねられ、「私は正月甲子の朔の生まれで、それから四百四十五回の甲子がめぐり、その最後の甲子の日から二十日たった」と答えた逸話。そのとき、師曠が「七十三歳」と計算し、大史の趙が「名の亥の古字は二首六身になり、それは生まれてから今日までの日数を示す」と述べ、士文伯が「それは二万六千六百六十日になる」と言った。亥の古字は算木で2666を置いたかたちで、二と六の組み合わせでできる。このことを聞いた季武子(季孫宿)が「晋は人材が豊富で、軽視できない」と答えた。

[14] 裹は裏と別字。

[15] 亡の原文は(Unicode:4ebe)

[16] 後漢の人。『後漢書』巻百十四。

[17] 壼は、壷(つぼ)、壺(つぼ)と別字。

[18] 雄山は号。子證は字(あざな)。甫は字(あざな)に添える語。

[19] 漢字カタカナ交じり文。一部に訓点。