◎竪亥録[1]

 

◎今村知商序

【原文】

竪亥録序

予僕幼志于筭術閲於諸書而雖行於術不能盡解也爰一日傳聞花洛毛利氏重能爲明筭學士尋往吐予茅塞矣重能曰欲作筭術者當紀置實與法勘考因術歸術或増減乃術或方弦之術而化則知得商矣所謂方弦之術乃鉤股弦是規也予本之以雖爲數術知爲方未知爲圓矣苟宇宙之洪荒且有度數乎因以雖小學又不可不明此術於是懷歎而經歳月久矣而問或師師曰夫筭數之濫觴者伏羲始畫八卦黄帝定三數爲十等隷首因以著九章故八卦九章万物之本是一也嗚呼爲什麼識一之根元哉予聞之顧質鈍遂鑽研以圓弦之術乃名徑矢弦弧矢弦是矩也無規矩者何以模倣然而規矩筭術之法元也亦事物之靈樞也雖有汝南氏啓蒙等其煩雑而鹵莽之孫苟不易暁矣故予不揣蕪陋立筭術樞要方圓平直之式九條陳編冊而且曰竪亥録蓋古之竪亥歩中調乾坤測量今使此書有掌内事物之度數立料識矣敢以知不登而高知不行而遠乎豈又妄言哉將壽其傳於吾家之子弟不羞他見之嘲哢而已且爲幸歟
旹寛永己卯歳仲春吉旦河州狛庄今村知商謹書

【訓読】

竪亥録序

予僕、幼にして算術にこころざし、諸書を閲し、術をおこなうといえども、ことごとくは解するあたわざるなり。ここに一日、花洛(=京都)毛利氏重能、明算の学士なるをつたえきき、たずねゆきて、予の茅塞(ぼうそく=かやが生えてふさぐこと。転じて、欲のために心がおおわれること)をはく。重能いわく、算術をつくらんと欲せば、まさに実と法を紀置し、因術、帰術、あるいは増減の術、あるいは方弦の術を勘考すべし。しこうして化せばすなわち商を知得す。いわゆる方弦の術はすなわち鉤股弦。これ規なり。予、これにもとづき、数術をなすといえども、方をなすを知りて、いまだ円をなすを知らず。いやしくも宇宙の洪荒、まさに度数あり。よりて小学をなすといえども、またこの術をあきらかにせざるべからず。ここにおいて、嘆をいだきて、歳月をへることひさし。しこうして或師に問う。師いわく、それ算数の濫觴は、伏羲はじめて八卦を画し、黄帝三数をさだめて十等となし、隷首よりてもって九章をあらわす。ゆえに八卦九章は、万物のもと。これ一なり。ああ、いかんぞ一の根元をしるとなさんや。予これをきき、かえりみて質の鈍をもって鑽研をとげ、円弦の術をもってすなわち径矢弦、弧矢弦となづく。これ矩なり。規矩なきはなにをもって模倣せん。しかりしこうして規矩は算術の法元なり、また事物の霊枢なり。汝南氏啓蒙等ありといえども、その煩雑にして鹵莽(ろもう)の孫、いやしくもさとりやすからず。ゆえに予、蕪陋(ぶろう)をはからずして、算術の枢要、方円平直の式九条を立て、編冊にのべて、かつ竪亥録という。けだしいにしえの竪亥(じゅがい)、歩中、乾坤測量をしらぶ[2]。いま、この書をして掌内にあらしめば、事物の度数、たちどころにはかりしれん。あえてもって登らずして高きをしり、行かずして遠きを知るは、あにまた妄言ならんや。まさにそれ、わが家の子弟に伝えんことをことほぎ、他見の嘲弄をはじざるのみ。まさに幸いとなさんか。
ときに寛永己卯の歳、仲春吉旦、河州狛庄、今村知商、つつしんで書す。

【通釈】

私はおさないころから数学にこころざし、さまざまな本を読み、術をこころみたが、すべてを理解することはできなかった。ある日、京都の毛利重能がすぐれた数学者であると聞き、訪問して、私の疑問をぶつけてみた。すると重能は、「数学を勉強したいなら、実と法を置き、一桁の割り算、二桁の割り算、増減の術、方弦の術に配慮すべきだ。そうすると答えを知ることができる」とのべた。ここで方弦の術とは、三平方の定理のことで、これが「規」にあたる。これにもとづいて、私は、数学を勉強し、正方形の問題を理解したが、まだ円の理論には達しなかった。この広大な宇宙には法則がある。だからわずかな知識に満足するべきではない。こうして不満をもったまま歳月がながれた。そしてある師に質問した。ある師は言った。「算数は、伏義が八卦をきめ、黄帝が大きな数の三つの数え方と十種類の呼び方をきめ、それにもとづき隷首が九章を書いたことにはじまる。だから八卦、九章は万物のもとといわれる。これが一である。ああ、どうして一の根源を知らずにはおれようか」。私は、これを聞いて、才能はなかったが努力し、円弦の術を径矢弦、弧矢弦と命名した。これが「矩」にあたる。規矩がなければ、なにを模範とすればよいか。そして規矩は数学のおおもとであり、物事の中心となる。これまで汝南氏の啓蒙などがあったが、複雑すぎてわかりにくかった。そこで私は、能力不足をかえりみず、数学の中心となる方円平直の9つの式を立て、一冊の本として、『竪亥録』となづけた。これは、古代の竪亥がほうぼうを歩きまわって測量をした故事によるもの。いま、この本が手元にあれば、ものごとの法則は、すぐにわかるだろう。山に登らず、高さを知ることも、遠くに行かず、距離を知ることも、もう妄言とはいわせない。わが門弟にこれを伝授することを祝い、他人が見て、あざけっても、なんらはずかしいとは思わない。ほんとうにめでたいことではないか。
ときに寛永16(1639)2月吉日、河内の国、狛庄、今村知商、つつしんで書す。

 

◎今村知商跋[3]

【原文】

此竪亥録雖傳於子孫爲抄各以神文依有執心於武州江戸府一百部鋟梓以相傳之庶幾使此鈔自今以後行筭術
寛永十六己卯年
十一月吉辰今村知商(花押)

【訓読】

この竪亥録は、子孫のため抄をつたえるといえども、おのおの神文をもって、執心あるによりて、武州江戸府において、一百部を梓にきざみ、もってこれを相伝す。こいねがわくば、この鈔をして、いまより以後、算術をおこなわしめん。
寛永十六己卯の年(1639)
十一月吉辰、今村知商。

【通釈】

この竪亥録は、子孫のために私の業績の一部を伝えるものだが、各人が神文で熱心に誓ったので、武蔵の国、江戸で100部を印刷して、配布する。今後はこの本で、数学の学習がおこなわれることを希望する。
寛永16年(1639)11月吉日、今村知商。

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[1] 東北大学図書館・林文庫。

[2] 『山海経(せんがいきょう)』。『竪亥録仮名抄』の著者不明竪亥録序を参照せよ。

[3] 白文。年紀の「寛永十六己卯年」は一字分、台頭しているようにも見える。