◎竪亥録仮名抄

 

◎寛永十六年著者不明竪亥録序[1]

【原文】

竪亥録序

夫數者六藝之一術也隷首著九章黄帝定三數自爾以來作筭經者逓代斯夥矣
本朝達此術者雖間有之蓋作爲此書者鮮矣爰有今村氏知商者學筭法於洛陽人毛利氏重能術業有専攻一日袖於緗秩兩軸而來曰自我少時嗜此術數既有年依是以暇日詢求採摭編集輯録誠玩好之専志也然生于蕩子家西漂東泊不遊文囿不事鉛槧文字踈懶詞藻□陋是以名號冠首蓋闕如也願子爲之於是矣余展覿之開讀之有九因九歸之法規矩方圓之圖惣計九式分爲上下可謂全備矣因名之以竪亥録案山海經曰帝令竪亥歩自東極到西極五億十選九千八百八十歩竪亥右手把筭左手指青丘曰五億十萬九千八百若以此書推之治之四維八紘高天廣地、可坐而致也其然豈不其然乎歳次己卯閏仲冬日滌筆于無咎齋下

【訓読】

竪亥録序

夫れ數は、六藝之一術なり。隷首、九章を著はし、黄帝、三數を定む。爾(こ)れ自(よ)り以來(このか)た、筭經を作くる者の逓代(ていだい=代々)、斯(こ)れ夥(おびただ)し。[平出]本朝、此の術に達する者の、間(かんかん、おりおり、ちかごろ)、これ有りと雖とも、蓋(けだ)し此の書を作爲する者の鮮(すくな)し。爰(ここ)に今村氏知商という者あり、筭法を洛陽の人毛利氏重能に學ぶ。術業専攻あり、一日(いちじつ=ある日)緗秩兩軸を袖にし、而して來て曰く、我れ少(おさな)かりし時より、此の術數を嗜むこと既に年あり、是に依て、暇の日を以て詢(と)ひ求めて採摭(さいせき)編集輯録す。誠に玩好の専志なり。然(しか)れども蕩子の家に生れて、西漂東泊して、文囿(=文園、学校)に遊ばず、鉛槧(えんざん=文筆)を事とせず、文字踈懶(そらん)、詞藻□陋[2]たり。是を以て冠首(=巻頭)に名號すること蓋し闕如たり。願わくば子、これが爲に是(ここ)に於てせん。余、展(のべ)てこれを覿(み)、開きてこれを讀めば、九因九歸之法、規矩方圓之圖、惣(す)べて計するに九式、分ちて上下となす。謂(い)いつべし、全(まった)く備れりと。因(より)てこれを名づくるに竪亥録を以てす。案ずるに山海經に曰く、帝、竪亥をして歩せしむ。東極より西極に到りて、五億十選(=万)九千八百八十歩、竪亥右手に筭を把り、左手に青丘[3]を指して曰く、五億十萬九千八百と。若し此の書を以てこれを推し、これを治めば、四維八紘(=四方八方)、高天廣地、坐(いなが)らにして致しつべし。其れ然(しか)り、豈に其れ然らざらんや[4]
歳次己卯[5]閏仲冬(=閏11月)の日、筆を無咎齋[6]の下に滌(そそ)ぐ。

 

◎安藤有益序[7]

【原文】

竪亥録假名抄序

竪亥録之本書者今村氏知商之所撰輯也寛永己卯歳於武江府鋟梓以與同志其業可謂勤矣萬治庚子秋予始得視焉潜窺之詞簡而意味深長也或曰此書無訓而難讀無員而難通若附其句讀述其員數以表章之豈不爲幸乎予曰數學之奥妙則茫乎未有得也然有所據爲點之又以和字之諺解而贅其法術間亦雜所聞師之格式以應其需可謂牽合附會矣且疑誤之多而悖本書之旨故徃而使此抄見知商而問其是非知商曰雖未盡其理是亦可矣遂自跋斯書
萬治庚子冬十二月六日 安藤有益

【訓読】

竪亥録假名抄序

竪亥録の本書は、今村氏知商の撰輯するところなり。寛永己卯の歳(1639)、武(=武蔵の国)の江府(=江戸)において、梓に鋟(きざ)めて、以って同志に与(あた)う。その業、謂(い)つべし、勤(つと)めたりと。萬治庚子(1660)の秋、予、始めて、焉(これ)を視(み)ることを得、潜(ひそ)かにこれを窺(うかが)うに、詞、簡にして、意味深長なり。或は曰う、此の書、訓無くして讀み難く、員(=員数)無くして通し難し。若(も)し其の句讀(くとう)を附し、其の員數を述(の)べて、もって之を表章せば、豈(あに)幸となさざらんか。予が曰く、數學の奥妙は則、茫乎として、未た得ること有らざるなり。然れとも、據るところ有て(=よんどころあって)、ために之を點(=点)し、又、和字の諺解を以て而して其の法術を贅(ぜい)す。間(ちかごろ、おりおり)亦(また)[8]、師に聞けるところの格式を雜えて、以て其の需(もとめ)に應ず。謂つべし、牽合附會すと。且つ疑ふ、誤りの多ふして本書の旨に悖(もとら)んことを。故に徃(=往)て此の抄を知商に見せしめ、其の是非を問ふ。知商の曰く、未だ其の理を盡(=尽)さずと雖も、これも亦、可なり。遂(つい)に自ら斯(こ)の書に跋す。
萬治庚子(=万治3年(1660))冬十二月六日、安藤有益[9]

 

◎今村知商跋[10]

【原文】

予作此編者在蚤歳而質魯淺學雖不及此術之薀奥亦欲便後世同志之初學而已近自披閲之摭大旨而闕其細意矣粤憾如不似之後生困尋繹其門然雖身任致仕勞公事曾無私日故徒有志而不克改此有年矣安藤氏有益者生敏而嗜此藝因縁遊予門偶得此書仍惜其闕畧即補輯之來告予披閲之直與予素懐脗合矣誠商賜起予者也乎弟子勝師者也乎幸甚
萬治庚子十一月丙寅今村氏知商跋

【訓読】

予、此の編を作れるものの蚤歳(そうさい=若いとき)に在り。而して質魯淺學、此の術の薀奥(うんのう=奥深いところ)に及ばずと雖も、亦、後世同志の初學に便せんと欲するのみ。近(ちかご)ろ自(みずか)ら披(ひら)きて、これを閲(み)れば、大旨を摭(ひろ=拾)うて、その細意を闕(か)く。粤(ここ)に憾(うらむ)らくは、不似(ふじ=私。自己の謙称)が如きの後生(=後輩)、其の門を尋繹(じんえき=訪問)するに困(くる)しまんことを。然(しか)りと雖も、身、致仕(ちし=退職、70才)に任(まか)し、公事に勞(ろうし、つとめ)て、曾(かつ)て私日なし。故に徒(いたずら)に志のみありて、改るに克(ととの)わざること、ここに年あり。安藤氏有益というは、生敏にして、この藝を嗜(たしな)む。縁に因(より)て、予が門に遊んで、偶(たまたま)、この書を得。仍(より)て其の闕畧(けつりゃく=欠けて短いこと)を惜(おし)んで、即ち之を補輯して、來りて予に告ぐ。披(ひらき)て之を閲(み)れば、直(ただ)ちに予か素懐と脗合(ふんごう=合致)せり。誠に商賜(=孔子の弟子の子夏と子貢)、予を起す[11]ものならんか。弟子、師に勝れるものならんか。幸ひにはなはだし。
萬治庚子(3年(1660))十一月丙寅、今村氏知商跋す。

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[1] 訓点・竪点・送り仮名つき。

[2] □はさんずいへんに剪。□陋は「浅陋(せんろう)」の意味であろう。

[3] 九尾の狐がいる伝説の国。青丘は古代朝鮮の別名でもある。

[4] 『論語』憲問。そうかも知れないが、まさかそうでもあるまい。『拾璣算法』の清原信定跋の冒頭に見える。

[5] 寛永十六年(1639)をさす。次の安藤有益序の冒頭を見よ。

[6] 無咎は元の焦養直や孫瑾の字(あざな)だが、無咎齋が何を意味するか不詳。

[7] 訓点・竪点・送り仮名つき。

[8] 間と亦の二字の左傍らに短い縦線(竪点)があり、「間」を訓読みするのであろう。

[9] この氏名は、姓の丸印と名の角印から読み取れる。

[10] 訓点・竪点・送り仮名つき。「跋」などの題名はない。

[11] 『論語』八佾。自分の気づかないことを悟らせる。自分を啓発する。