発微算法演段諺解

 

◎建部賢弘序[1]

【原文】

發微算法演段諺解元巻

発微筭法ハ孝和先生古今筭法記一十五問ニ答術ヲ施ス所ノ書也延寶甲寅ノ歳梓ニ鋟メテ世ニ行ル後庚申ノ歳書肆ニ有テ[返点]火板氓ヒンタリ嘗テ思フニ近世都鄙ノ筭者彼ノ術ノ幽微ヲ不[返点]知或ハ無術ヲ潤色セルカト疑ヒテ類問ヲ假託シテ窺ヒ[返点]之ヲ或ハ術意誤レリト評シテ却ツテ其ノ愚ヲ顕ハス不敏ナリトイヘトモ先生ニ學ンテ粗得ル所有リ於テ[返点]茲ニ世人區々ノ惑ヒヲ釋(トカ)ント欲シテ発微筭法ニ悉ク演段ヲ述シ本書ニ附シテ緫テ四巻トナス抑此ノ演段ハ和漢ノ筭者未タ-ザル[一二点]発明セ所也(ナリ)誠ニ師ノ新意ノ妙旨古今ニ冠絶セリト謂ツヘシ尚(ナヲ)一貫ノ神術有リ[返点]之トイヘトモ庸學躐ル[返点]等ヲノ弊アラン事ヲ恐ルヽカ故ニ今姑(シハラク)閣(サシヲク)[返点]之ヲ此ノ書ニ載ル所潜(ヒソメテ)[返点]心ヲ味ハヽ[返点]之ヲ漸ク不ルニ[返点]差ハ庶(チカヽ)ラン乎(カ)貞享二年歳次乙丑季夏序
源姓建部賢弘

【読み下し】

發微算法演段諺解元巻[2]

発微筭法は、孝和先生、古今筭法記一十五問に答術を施す所の書なり。延寶甲寅の歳(1674)、梓に鋟(きざ)めて、世に行(おこなわ)る後(のち)、庚申の歳(1680)、書肆に火ありて、板(はん=版木)[3]、氓ひん[4]たり。嘗(かつ)て思うに、近世都鄙(とひ=都会と田舎)の筭者、彼の術の幽微を知らず、或は無術を潤色せるかと疑ひて、類問を假託してこれを窺(うか)がい、或は術意誤れりと評して、却(かえ)って其の愚を顕(あらわ)す。予、不敏なりといえども、先生に學んて粗(ほぼ)得る所あり。茲(ここ)において世人、區々(くく=それぞれ)の惑いを釋(とか)んと欲して、発微筭法に悉(ことごと)く演段を述(じゅつ)し、本書に附して、緫(すべ)て四巻となす。抑(そもそも)此の演段は和漢の筭者、未(いま)だ発明せざる所なり。誠に師の新意の妙旨、古今に冠絶せりと謂(い)つべし。尚(なお)一貫の神術これありといえども、庸學(ようがく=凡庸の学者)、等(とう)を躐(こえ)る[5]の弊あらん事を恐るるが故に、今(いま)姑(しばらく)これを閣(さしお=差し置)く。此の書に載る所、心を潜(ひそめ)てこれを味わわば、漸(ようや)く差(たが)わざるに庶(ちか=近)からんか。貞享二年(1685)歳次乙丑、季夏(=6月)序す。
源姓建部賢弘。

 

◎関孝和発微算法序[6]

【原文】

發微筭法序

頃歳筭學行于世甚矣或立其門或著其書者不可枚擧也茲有古今筭法記設難題一十五問引而不發矣爾來四方之筭者雖手之其理高遠而苦難暁且未覩其答書嘗有志斯道故發其微意註術式而深藏筥底以恐外見矣我門之學徒咸曰庶幾鋟梓廣其傳然則爲未學之徒不無小補仍不顧文理之拙應其需名曰發微筭法至其演段精微之極依文繁多而事混雑省畧之猶俟後賢之學者欲正焉而已于時延寶二歳在甲寅十二月幾朢關氏孝和叙

【訓読】

発微算法序

頃歳(けいさい=近年)算学、世に行はるること甚(はなはだ)し。或はその門を立て、或はその書を著はす者の枚挙すべからざるなり。茲(ここ)に古今算法記有(あり)て、難題一十五問を設け、引きて発せず[7]。爾来(これよりこのかた)四方の算者、之を手にすといえども、その理、高遠にして暁(さと)し難(がた)きことを苦(くるし)む。且ついまだその答書を覩(み=見)ず。予、嘗てこの道に志すこと有るが故に、その微意(びい=いささかの思い。己の志の謙称)を発し、術式を註して、深く筥底(きょてい=はこの底)に蔵して、以って外見を恐る。我が門の学徒、咸(みな)曰く、庶幾(こいねがわ)くば梓に鋟(きざ)めて、その伝を広くせよ、然らば則ち末学の徒のために小(すこ)しき補(おぎな)いなくんばあらずと。仍(より)て文理(ぶんり=すじめ、条理)の拙(つたな)きを顧みず、その需(もとめ)に応じて、名(なづ)けて発微算法と曰う。その演段精微の極(きょく)に至(いたり)ては、文、繁多にして、事(こと)、混雑せるに依(より)て、之を省畧す。猶(なお)後賢の学者を俟(まつ=待)て正(ただ)さんことを欲するのみ。時に延宝二(1674)、歳(ほし)甲寅に在(やど)る十二月幾望(きぼう=満月に近い14日)関氏孝和叙(じょ)す。

 

◎建部賢之・賢明跋[8]

【原文】

甞今時算藝ヲ以テ世ニ鳴ル者ヲ観ルニ、分交合離ノ術ヲ得テ解難ノ奥義トシテ自惑フ者アリ勾股変等ノ數ヲ以テ諸術ノ源ナリトシテ自誇ル者アリ截盈補虧ノ法ヲ以テ數學ノ宗トシテ自勞スル者アリ纔ニ立天元一ノ式ヲ學テ天地陰陽ニ附会シテ自欺ク者アリ又ハ同門ノ末弟演段ノ片端ヲ聞得テ邪説ヲ以テ愚蒙ヲ誑ス者モアリ如[返点]是ノ輩妄ニ書ヲ著シ猥ニ言(コト)ヲ吐テ學徒ヲシテ邪路ニ趣カシム誠ニ可[返点]歎ノ至也予等孝和先生ノ門ニ遊ンテ既ニ奥旨ヲ得タリ頃日同姓賢弘世人ノ迷昏ヲ開カンカタメニ發微算法演段諺解ヲ編ス覧[返点]之一十五術ノ深意明ニ解シ且難題ヲ解クノ筌蹄ニシテ學者ヲ導クニ便リアリ因テ校正シテ剞劂氏ニ命シテ令[返点]刊[返点]之後來儻不審アルモノハ來テ論問セヨ教誨破却ハ厥人ニ於テ為ン
于時貞享乙丑初秋書
建部氏賢之
同氏賢明

【読み下し】

甞(かつ)て今時(こんじ=いまの時代)算藝を以って世に鳴る者を観るに、分交合離の術を得て、解難の奥義として自(みずか)ら惑う者あり。勾股変等の數を以って諸術の源なりとして自ら誇る者あり。截盈(せつえい=あまっているものをたちおとす)補虧(ほき=かけているものをおぎなう)の法を以って數學の宗として自ら勞する者あり。纔(わずか)に立天元一の式を學んで、天地陰陽に附会して自ら欺(あざむ)く者あり。又は同門の末弟演段の片端(かたはし)を聞き得て、邪説を以って愚蒙を誑(たぶらか)す者もあり。このごときの輩、妄(みだり)に書を著し、猥(みだり)に言(こと)を吐いて、學徒をして邪路に趣(おもむ)かしむ。誠に歎(たん)ずべきの至りなり。予等、孝和先生の門に遊んで、既に奥旨を得たり。頃日(けいじつ、ちかごろ)、同姓賢弘、世人の迷昏(めいこん)を開かんがために、發微算法演段諺解を編す。これを覧(み)るに一十五術の深意、明らかに解し、かつ難題を解くの筌蹄(せんてい=魚をとる道具とウサギをとるワナ)にして、學者を導くに便(たよ)りあり。因(より)て校正して、剞劂(きけつ=版木を彫刻する)氏に命じて、これを刊せしむ。後來(こうらい=将来)儻(もし)不審あるものは來(きた)りて論問せよ。教誨(きょうかい=おしえさとす。誨も教える)破却(はきゃく=論破する)は厥(その)人に於いて為(せ)ん。
于時(うじ、ときに)貞享乙丑(1685)初秋(=7月)書す。
建部氏賢之
同氏賢明

 

◎関孝和跋[9]

【原文】

筭學何為乎學難題易題盡无不明之術也雖説理高尚觧術迂濶者乃筭斈之異端也一日門人建部氏三子相具來而謂曰發微笇法演段諺解既成矣欲附本書而刋之可乎曰雖未竭釈鎖之奥妙於啓世人之昏蒙如是者亦可也唯恐深傳而訛眞而已後學莫忽緒者幸甚貞享乙丑孟龝關氏孝和筆

【訓読】

算学は何の為(ため)ぞや。難題、易題、盡(ことごと)く明(あきら)めざるということ无(なき=無)の術を学ぶなり。理を説くこと高尚なりといえども、術を解くこと迂濶(うかつ)なるは、乃(けだ)し筭斈(=算学。斈は学の異体字)の異端なり。一日(いちじつ)門人建部氏三子(=建部賢弘、賢之、賢明の三兄弟のこと)相(あい)具(とも=倶)に來りて、謂(い)いて曰く、發微算法演段諺解、既に成れり。本書に附してこれを刊せんと欲す。可ならんか。余が曰く、未だ釈鎖(しゃくさ=クサリを解く。釈は解)の奥妙を竭(つく)さずといえども、世人の昏蒙(こんもう=愚かなこと。昏は暗い)を啓(ひら)くに是(こ)の如きのもの、亦(また)可なり。唯(ただ)深伝して真を訛(あやま)らんことを恐るのみ。後學、忽緒(こつしょ=なおざりにする。忽諸)すること莫(な)くんば、幸(さいわ)い甚(はなはだ)しからん。貞享乙丑(1685)孟穐(=7月)、関氏孝和、筆(ひつ)す。

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[1] 漢字カタカナ交じり文。一部に訓点、竪点あり。

[2] 『発微算法演段諺解』は元亨利貞の四巻からなり、この序文は元巻の冒頭にある。

[3] 原文、「板」の右側に竪点がある。音読みする。

[4] 氓は流浪の民。泯(ビン、ほろびる)であれば、泯々(びんびん)は滅びるさま。

[5] 躐等(りょうとう)は、順序をふまないで飛び越えること。

[6] 訓点・竪点・ごく一部に傍訓・送り仮名つき。もとの『発微算法』に添えられた関孝和序は訓点のみだが、この『発微算法演段諺解』の「発微算法関孝和序」は竪点、送り仮名などがあり、読みやすくなっている。漢字表記は、『発微算法』の「算」「望」に対して、「筭」「朢」の違いがある。

[7] 『孟子』盡心上。「君子引而不発、躍如也。中道而立。能者従之」。

[8] 漢字カタカナ交じり文。一部に訓点、竪点、ごく一部に傍訓。「跋」などの題名はない。

[9] 訓点・竪点・一部に傍訓・送り仮名つき。さきの「建部賢之・賢明跋」とこの「関孝和跋」は、貞享二年京都林傳左衛門・江戸婦()屋五郎兵衛版にあるもの。