◎算法統宗[1]

 

◎呉敬綬序[2]

筭學統宗序

夫筭非小技也。有熊氏命隷首創焉思官則置保氏。教國子以六蓺。而数居其一。唯是数以俟夫筭筭以成夫数。固二而一者也籍令筭為小技。何古先哲王。用意勤篤如是哉。迺今隷首遠矣保氏之職廢。精其理者代不数人。程汝思氏悵然有恫於衷。爰輯筭學統宗十七巻汝思少遊呉楚。歴大澤名山。老憩丘園。擧平生師友之所講求。咨詢之所獨得者。提綱挈要。縷拆支兮。著是編而迪来學。儻其中有先進言之未矣而或未精者。汝思悉為闡明之。汝思謂余曰。大位悦孫武子兵家言而感其通于事理也。曰多筭勝少筭不勝。而於無乎乎迄今疇為隷首而吾幾其徒耶疇為保氏而吾幾其副耶。匪汝思目任所事思之自得者耳。汝思之書具在。一寓目而千古所謂方田以下。旁要以上。九数云者。靡不了了于胸臆間。始知汝思之稱説。不迂矣。余謂汝思不佞于此道。未見一斑。第嘗讀漢記。至安定嵩真言蒐元理。一能自筭其年壽。一能為友人筭囷米擧所食十餘轉。不差圭合。其術後相授受。得其分数。而失玄妙焉。不佞未甞不欣慕。而抱願見之思。今觀汝思駸駸乎跂玄妙之帰。無讓嵩真。元理。當吾世而獲觀其人。一何快哉
萬暦癸己初夏七日漸江上呉繼綬著

【訓読】

算学統宗[3]

それ算は小技にあらざるなり。有熊氏(=黄帝)、隷首に命じてより、焉(これ)を創(はじ)め、官を思えば則、保氏を置き、國子に教ゆるに六芸を以ってす。而して数[4]、その一に居す。唯(ただ)是(これ)数は以って夫(か)の算を俟(ま=待)ち、算は以って夫(か)の数を成す。固(まこと)に二にして一なるもの[5]なり。籍(かり)に算を小技と為(な)さ令(し)めば、何ぞ古(いにしえ)の先哲、意を王用し、勤(つと)むることの篤(あつ)き、かくの如き哉(や)。迺(すなわ)ち今、隷首、遠し。保氏の職、廃(すた)れ、その理に精(くわ)しき者は、代(よよ=代々)人を数(かぞ)えず。程汝思[6]氏、悵然(ちょうぜん=なげくさま)として衷(うち=胸中)に恫(いたみ=悼、痛)あり。爰(ここ)に算学統宗[7]十七巻を輯(あつ)める。汝思、少(わか)くして呉楚(=呉と楚の国。長江の中流から下流域)に遊び、大澤(だいたく)名山(めいざん)[8]を歴(めぐ=巡)りて、老(おい)て丘園(きゅうえん=丘の花園、転じて隠居の地)に憩(いこ)う。平生(へいぜい)師友の講求する[9]ところを挙げて、これに咨詢(しじゅん=問いはかる。咨も詢も、はかる。咨諏)し、獨(ひと)り得るところのものは、提綱(ていこう=事の主要な点をあげる。提要)挈要(けつよう=要点を整理する)、拆支(たくし=分類)を縷(つづ)る[10]この編を著して来学(らいがく=将来の学者。後学)を迪(みちび)く。儻(も)しその中に先進のこれを言いていまだ備[11]えざるあれば、備う。而して或はいまだ精(くわ)しからざるものは、汝思、悉(ことごと)くこれを闡明(せんめい=明らか)と為(な)す。汝思、余に謂いて曰く、「大位(=程大位)は孫武(そんぶ=人名。春秋時代の人。『孫子』を著した)子の兵家の言を悦(よろこ)びて、その事理に通じることを感じる(=感動する)なり。(孫武子の兵家の言は)曰く、『算多きは勝ち、算少なきは勝たず。而(しか)るを况(いわん=況)や(算の)無きにおいてをや』[12]と。乎乎(ああ)今に迄(いた)り、疇(いずれ=孰)か隷首をして吾はその徒に幾(ちかづ)く耶(や)[13]。疇(いずれ=孰)か保氏をして吾はその副に幾(ちかづ)く耶(や)」と。汝思の目に匪(あら=非)ずんば、事とするところ、これを思い、自ら得るものに任じるのみ[14]。汝思の書、具(つぶさ)に一寓(=一隅)の目に在りて、千古(せんこ=千年の後の世)に、所謂(いわゆる)方田(ほうでん=九章の最初のもの。面積)以下(=より)、旁要(ぼうよう=九章の最後のもの。句股の別名。直角三角形)以上(=まで)、九数(=九章)を云うものは、胸臆(きょうおく=心。臆も胸)の間に了了(りょうりょう=はっきりとする)とせざること靡(な)し。はじめて汝思の称説(=となえる説)を知り、迂(とおまわ)りせず、余、汝思に謂(い)えらく、「不佞(ふねい=自己の謙称。呉継綬のこと)、この道にいまだ一斑(いっぱん=一部分)を見ず。第(ただ)嘗(かつて)漢記[15]を読むに、安定(=地名)の嵩真(こうしん=人名)、蒐[16]元理を言いて、一(あるいは、ひとりは)能(よ)く自らその年壽(=年齢)を算(かぞ)え、一(あるいは、ひとりは)能(よ)く友人のために囷米(きんまい=倉のコメ)を算(かぞ)え、食するところの[17](しゅ=黄色の竹。タケノコか?)を挙げて、十餘轉(てん)して[18]、圭合(けいごう=わずかな量)を差(たが)えず。その術、後(のち)、あい授受して、その分数(=わける数の意か?)を得て、玄妙(げんみょう=奥深く微妙なこと)を失う[19]。不佞(ふねい=自己の謙称。呉継綬のこと)いまだ甞(かつ)て欣慕(きんぼ=喜びしたう)せざるべからず。而して願わくばこれを見(あらわ)すの思いを抱(いだ)く。今、汝思を観(み)るに、駸駸(しんしん=物事が速く進行するさま)として玄妙の帰(=帰着するところ)を跂(のぞ=望)み、嵩真、元理に譲る(=おくれをとる)ことなし。當(まさ)に吾が世にして、その人(=嵩真、元理のような人)を観(み)るを獲(え)るべし。一(いつ)に何ぞ快ならんや。
萬暦(ばんれき)癸己(1593)初夏七日、漸江の上(かみ=上流)、呉[20]繼綬、著す。

 

◎程大位序[21]

【原文】

書直指筭法統宗後

數居六蓺之一其來尚矣盖自虙戲宰世龍馬負圖而數肇端軒后紀暦隷首作筭而法始衍故聖人繼天立極所以齊度量而立民信者不外黄鍾九寸之管所以定四時而成歳功者不外周天三百六十五度之數以至遠而天地之高廣近而山川之浩衍大而
朝廷軍國文需小而民生日用之費皆莫能外數詎不重已哉予初躭習是學弱冠商遊呉楚徧訪明師繹其文義審其成法歸而覃思于率水之上餘二十年一旦恍然若有所得遂於是乎會諸家之法附以一得之愚纂集成編諸凢前法之未發者明之未備者補之繁蕪者刪之疎畧者詳之而又爲之訂其訛謬別其序次清其向於我上智見義於筌蹄之外而成法亦可縁是以親魚兎豈敢曰立我
明一代筭數之宗聊以啓後學之成式爾已惟然圖以列陳而以圖陳者不盡兵之法書以博御而以書御者不盡馬之情則今日筭數之編亦圖陳書御筭耳要以縁尺度而求繋得神理而忘數象則必有比類旁通如孫呉之兵王良造父之御在不然累寸者至尺必差積銖者至两必謬即一一按之成法其何能周天下無窮之變而亦豈吾鋟梓以傳之意也哉周漆園吏有言迹履之所出而迹豈履哉吾於是法亦云
萬暦壬辰夏五甲子新安後學程大位識

【訓読】

直指筭法統宗の後(しりべ)に書す。

数は六芸の一に居(きょし、あり)て、その来(きた)ること尚(とお)し。けだし、虙戲(ふくぎ=伏羲)、宰世(さいせい=世をつかさどる)より、龍馬、図(=河図)を負いて、数は軒后(=黄帝をさす?)[22]紀暦(きれき=暦法を正す)に肇端(ちょうたん=始まる)し、隷首、筭を作(つくり、えらび)て、法、始めて衍(いたれ)り。故に聖人、天を継ぎ、極を立て、度量を齊(ととの)えて民信を立つる所以(ゆえん=方法、理由)は、黄鍾(こうしょう)九寸の管(くだ)に外(ほか)ならず[23]、四時(=四季)を定めて歳功(さいこう=四季の推移がもたらす功績。特に農事)を成す所以(ゆえん=方法、理由)は、周天三百六十五度[24]の数に外(ほか)ならず[25]。以って、遠くは天地の高廣、近くは山川の浩(=広大)に至り、大は[平出]朝廷軍國文[26]需(=数学をふくむ文学にすぐれた学者)、小は民生日用の費(=消費)に衍(いた)り、皆、能(よ)く数に外(ほか)ならざること莫(な)し。詎(なんぞ)重(おも)きとせんや。予、初めこの学を躭[27]習(たんしゅう=学習にふける)し、弱冠(=二十歳)にして呉楚(=呉の国と楚の国)を商遊す。徧(あまね)く明師を訪(たずね、おとない、とい)、その文義を繹(たず)ね、その成法を審(つまびら)かにし、帰して率水(そつすい=川の名であろう)の上[28]に覃思(たんし=深く思う)すること餘(すべて)二十年、一旦(いったん=ある日)恍然(こうぜん=ほのかに)得るところあるが若(ごと)し。遂(つい)にここにおいて、諸家の法に叅[29]會(さんかい)し、これに一得(いっとく=ひとつのとりえ)をもって附し、愚、諸(これ)を纂集、成編す。凢(およそ)前法のいまだ発せざるものは、これを明(あきら)かにし、いまだ備えざるものは、これを補(おぎ)ない、繁蕪(はんぶ=ごたごたと乱れる。蕪は荒)のものは、これを刪(けずり、かり)、疎畧のものは、これを詳(つまびら)かにし、而して又、その訛謬(かびゅう=誤り)を訂(ただ)さんがために、その序次(=順序)を別(わか)ち、その向を我において清(きよ)む。上智(じょうち=生まれながら道を知っている人。上知)、筌蹄(=魚を取る道具とウサギを取る道具)の外(ほか)において見義(けんぎ=意義をあらわす)して法を成し、亦(また)魚兎(=魚とウサギ)に親しむをもって、これに縁(よ)るべし[30]。豈(あに)敢えて曰(い)わんや、我、[平出]明(みん=元のつぎの明朝)[31]一代の算数の宗を立つと。聊(いささ)か以って、後学の成式を啓(ひら)く爾已(のみ)。惟然(いぜん=思うに、という意味か?)図は列陳(れっちん=軍隊の行列。陳は陣)をもってし、図をもって陳(ちん=陣)ずれば、兵の法を尽くさず。書は博御(はくぎょ=伯楽の馬を御する意か?)をもってし、書をもって御すれば、馬の情(こころ)を尽くさず[32]。則ち今日の算数の編も亦(また)図で陳し、書で御する算のみ。要(すなわち)尺度に縁(よ)るをもって、[33]繋(かんけい=むなしいつながり)を求め、神理(=霊妙神奥の道理)を得て、数象を忘る。則ち、必ず比類(=なかま。比倫)旁通(ぼうつう=ひろくゆきわたる)あり。孫呉(=孫子)の兵、王良造父(おうりょうぞうほ=王良と造父。ともに古の御者)の御のごとき[34]は、不然(しか)らずこと在(あきら)か、寸を累(かさね)れば尺に至ること必ずとなり、積銖を差(たが)えれば、両に至ること必ずとなる。謬(あやま)ること、即ち一一(いちいち)これを按(あん)ず。法を成すこと、其(そ)れ何ぞ能く天下無窮の変を周(めぐ)りて、亦(また)豈(あに)吾が鋟梓(しんし=出版、印刷)、以ってこれを傳(つた)うる意(=こころ)とせんや。周の漆園吏(=荘子)[35]に言あり[36]。『迹(あしあと)は履(くつ)の出(いだ)すところにして、迹(あしあと)は豈(あに)履(くつ)ならんや』と。吾、この法において、また云う。
萬暦(ばんれき)壬辰(1592)夏五(かご=五月)甲子、新安の後学、程大位、識(しる)す。

 

◎難題附集雜法序[37]

【原文】

←新編直指筭法統宗難題附集雜法序

夫難題昉于永樂四年臨江劉仕隆公偕 内閣諸君預修
←大典退公之暇編成難法附于九章通明之後及銭塘呉信民九章比類與諸家筭法中詩詞歌括口號總集名曰難題難者難也然似難而實非難惟其詞語巧使筭師一時迷或莫知措手不知難法皆不離於九章非九章之外其難題惟在乎立法立法既明則迎刃而破又何難之有哉今分列九章立法明辯附集雜法于統宗之後俾好事者共覽云

【訓読】

←新編直指筭法統宗、難題、雜法を集むるの附(つけ)たり(=つけたし)、序[38]

夫(そ)れ難題は、永樂四年(1406)に臨江の劉仕隆[39]公、[闕字]内閣の諸君と偕(とも)に預修(=あずかりおさむ)せる[台頭]大典[40]に昉(あきら)かなり。退公の暇、難法を編成し、九章に附(つ)く(=プラスする)。通明(=劉仕隆の『九章通明算法』)の後、銭塘(=地名)の呉信民(=人名。呉敬とも)の九章比類(=『九章詳註比類大全』。『九章比類算法』とも)および諸家の筭法の中の、詩詞は歌にして括りて總集と口號(こうごう=文字に書かず心に浮かぶままに吟詠する、詩題のひとつ)す。名づけて曰く、難題と。難は難なり。然(しか)るに難に似て、じつは難にあらず。惟(た)だその詞語、巧[41]筭師をして、一時、迷わしめ、あるいは手を措しんで知ることを莫(な)からしむ。難法を知らざるは、皆、九章より離れずして、九章の外(ほか)にあらず。其(そ)れ難題は、惟(た)だ法を立つるに在(あ)り。法を立つること既に明かなれば則、迎刃(げいじん=やいばを迎える)[42]して破ること、又、なんぞ難、有らんや[43]。今、分(わか)ちて九章を列し、法を立て、明辯(めいべん=はっきりと説明)して、統宗の後(しりべ)に雑法を附集す。好事者をして共覽(=覧に供する)せ俾(し)む、と云う。

 

◎湯浅得之跋[44]

【原文】

筭法統宗跋

夫筭法者伏希始畫八卦周公叙述九章至於玄元葢古知積細草其旨淵奥難可尋繹所以上揆星躔下菅地理巨無不攬細無不規其間穀帛買賣賦物均輸罔弗備具至於修築積垜淺深廣遠高厚長短於縦横之間擧一至萬如示諸掌寔欲於經文緯武敏厚志之士捨之取何耶爰筭法統宗有渡唐而以来世久褒用令爲秘本今予考訂鋟梓矣此書所以備筭法之本源者於異朝綴抜此書作筭學辟奇又註解此書名筭海説詳於本朝嶋田氏統宗斑々捨集著九數筭法和漢志之一者也誰不垂芳蓋知湟澤之淵乎是此之云也
旹延寶三秊龍集乙夘
蝋月既望
村松九太夫弟子
湯淺市郎左衛門尉得之書

【訓読】

算法統宗跋

それ算法は伏希(=伏羲)始めて八卦を画し、周公、叙(のべ)て九章を述し(九章を叙述し)、玄元(=もと、はじめ)蓋古(がいこ=天地の古の意か?)、知積細草に至る。その旨、淵奥にして尋繹(じんえき=たずねる)すべから難(がた)しところ、上(かみ)星躔(せいてん)を揆(はか)り、下(しも)地理を菅(つかさど=管)る。巨(きょ)は攬(と)らざることなく、細(さい)は規(はか)らざることなし。その間、穀帛・買賣・賦物(ふぶつ=租税、貢物)・均輸(きんゆ)、備具(びぐ=十分に備わる)せざることなし。修築・積垜・淺深・廣遠・高厚・長短・縦横に至る間、一に挙げ、萬に至りて、諸掌を示すごとし。寔(まこと)に文を経(たていと)、武を緯(よこいと)とし、志(こころざし)に敏厚(びんこう)せんと欲するの士、これを捨てて、何を取らんや。爰(ここ)に算法統宗、渡唐ありて、以来、世に久しく褒用して、秘本となさしめる。いま、予、これを考訂し、梓(し)に鋟(きざ)む。この書、以って算法の本源を備えるところは、異朝において、この書を綴抜し、算学辟奇[45]を作り、また注解してこの書に算海説詳[46]と名づけ、本朝に嶋田氏(=島田貞継)、統宗、斑々と捨集して九数算法[47]を著す。和漢、志の一なるもの、誰か芳(ほうじ=立派なエサ)を垂れざるや。蓋(なん)ぞ湟澤(こうたく。皇澤は、天子の恵み)の淵を知らんや。これこの云なり。
ときに延宝3秊(ねん=年)龍集(りゅうしゅう=歳次)乙卯、蝋月(ろうげつ=臘月、十二月)、既望(きぼう=十六日)、村松九太夫(=村松茂清。『算爼』の著者。平賀保秀の門人)弟子、湯浅市郎左衛門尉(じょう)得之、書。


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[1] 大阪府立中之島図書館蔵の和刻本。扉裏に「新編直指筭法統宗」「三桂堂玉振華梓」。京都大学数学教室所蔵のものと同版。ここでは、中之島図書館蔵の漢籍も参照した。字句の異同は、漢籍を優先して表記している。

[2] 句読点は漢籍、和刻本とも小圏(◦)を使用している。和刻本には、訓点・竪点・送り仮名・一部に振り仮名があるが、六芸の一つである「数」を「しばしば」、自己の謙称である「不佞(ふねい)」に返り点をつけるなど、はっきり言って、かなりデタラメ。ここでは和刻本の訓法にとらわれず、訓読している。

[3] 序題は「算学統宗」であって、算法統宗ではない。もとの漢籍も「算学統宗」。

[4] 原文には「シバシバ」と振り仮名があるが、明らかに間違い。数は六芸の一つ。

[5] 数と算は二つであるが、わけることができない「ひとつ」のもの、という意味。

[6] 程大位のこと。汝思は字(あざな)。

[7] ここでも「算学統宗」であって、「算法統宗」ではない。もとの漢籍も。

[8] 大きな沢と良い山から転じて、大人物という意味であろう。

[9] 原文は「講シ求」。

[10] 兮(けい)は文末の助辞。

[11] (Unicode:4ffb)は備の異体字。

[12] 『孫子』計篇。

[13] 「疇為隷首而吾幾其徒耶。疇為保氏而吾幾其副耶」は訓読不詳。

[14] この部分、訓読不詳。「匪汝思、目任所、事思之、自得者耳」と区切るのか。

[15] おそらく「雑記」の誤り。唐代、自分の寿命を推定した嵩眞と、囷米を計算した曹元理の逸話は、『西京雑記』の巻四にみえる。わが国では、磯村吉徳の『頭書算法闕疑抄』巻四の頭書、および『括要算法』岡張序にみえる。元理がおこなった囷米の計算と、呉の趙達がおこなった席豆(せきとう=むしろのマメ)の計算(『呉志』趙達伝)は、「囷米席豆」のワンセットとなって、多くの和算書の序文に登場する。

[16] 元禄三年(1690)に和刻された『西京雑記』巻四では、「安定の嵩眞、玄菟の曹元理、並んで算術に明らかなり」とある。「蒐」は、玄菟の菟か、曹元理の曹の、どちらかの誤り。

[17] 漢籍、和刻本とも、原文は、竹冠に「耳+力」。(Unicode:7b83)とは異なる。和刻本『西京雑記』は、「筋」。

[18] この部分、算木のかわりに食物の「竹冠に耳+力」(、筋)をつかい、十数回ころがして計算した、という意味であろう。「轉」は細長いものをかぞえる単位でもあるが、ここでは動詞として読んだ。

[19] 『西京雑記』巻四のこの項の結びの文は、「その術、後、南季に伝わり、項瑫に伝わり、瑫は子陸に伝う。皆、その分数を得て、玄妙を失す」。

[20] 和刻本は「上」と「呉」の間に竪点があり、地名のように扱っている。

[21] 和刻本は、訓点・竪点・送り仮名・一部に振り仮名つき。

[22] 軒皇は、黄帝をいう。軒皇の三公のひとりに風后がいる。軒皇と風后をまとめて、軒后と言っているのかもしれない。

[23] 暦法や度量衡などを九寸の黄鐘の管にもとづく、とする考え方は、『漢書』律暦志にある。

[24] 古代中国では、周天を365度4分の1とする(『渾天儀』、『周髀算経』)。中国度(Chinese degree)

[25] 四季や歳功が周天三百六十五度にもとづく、とする考え方は、何によるものか不詳。『書経』堯典は一年の長さを「三百有六旬有六日」、『周髀算経』は一年を「三百六十五日四分日之一」、周天を「三百六十五度四分度之一」とする。

[26] この部分、和刻本の「朝廷軍國『之』需」を、漢籍の「朝廷軍國『文』需」に訂正している。

[27] 耽の俗字。

[28] この部分、和刻本の「于率水之『止』餘二十年」を、漢籍の「于率水之『上』餘二十年」に訂正している。和刻本は、「止餘」を熟語として扱っている。

[29] Unicode:53c5。参の異体字。

[30] 訓読不詳。意味不明。

[31] 和刻本は、「我れ一代の算数の宗を明らかにすと」と読んでいるが、これではなぜ「明」で平出しているのかわからない。

[32] 典拠の有無、不詳。要は「畳のうえの水練」「机上の空論」のことであろう。

[33] (かん)Unicode:7abd)には、むなしい、でたらめ、あな、のり(=法)などの意味がある。

[34] 「王良、車に登れば、馬に罷駑なし」つまり、王良が馬を御せば、疲れた馬でも、駑馬でもよく走る、という。『論衡』率性。

[35] 漆園は地名。荘子が官吏となったところ。『史記』荘子伝。

[36] 『荘子』天運。「夫れ迹は履の出す所なり。而(すなわち)迹は豈、履ならんや」。足跡は履物が作り出すもの。足跡がどうして履物でありましょう。

[37] 巻十三の冒頭。この序につづいて「難題目録」がある。訓点・竪点・送り仮名。

[38] 「雑法を附集するの序」と読むほうがよいかもしれない。

[39] 劉仕隆は、『九章通明算法』の著者。明治前日本数学史第一巻436ページに、「難題は問題を詩詞をもつて述べたもので、この風習は永楽4年劉仕隆がその著九章通明算法に載せたのが初めであって、その後の数学者はみなこれに倣っている」とある。

[40] 永楽大典。中国明代の一大百科事典(類書)。2万2877巻。目録だけで60巻。算学は、巻16329から巻16364にある。

[41] Unicode: 635azhai(1)は、たくみ、といった意味であろう。

[42] 迎刃而解は、やいばの赴くなりにそのまま裂け分かれること。転じて、事がはなはだ簡単なこと。

[43] 数学は、問題を作ることが難しいのであって、問題さえうまく立てられれば、解くことは簡単である、という意味。『精要算法』安嶋直円跋の冒頭に、「久留島先生いわく」として同様のことが書いてある。

[44] 訓点・一部に竪点・送り仮名つき。和刻の跋文。

[45] 辟奇は原文のまま。辟には、さける(避)、のぞく(除)などの意味がある。『明治前日本数学史』第一巻28ページは「算学群奇」とし、大矢・下平・平山の補訂でも訂正していない。明治前は、平山千里の『算藪』寛政元年(1789)巻五に、「算学群奇」の書名が見える、と指摘している。

[46] 清の李長茂の著。九巻。順治己亥(1659)自序。『明治前日本数学史』第一巻27、28ページを参照。

[47] 承応二年(1653)刊。