◎拾璣算法

 

◎川口尹當序[1]

【原文】

拾璣算法序

夫數者大也廣也高也精也其於世教亦尚矣哉天地之大江海之廣日月之高度量之精山川藪澤艸木人民禽獣魚鼈宮室舟車之雜且區禮之節而和楽之暢而合射之正而直御之良而齊書之繁而文弗待於此莫致其至雖有土地風氣之殊華夏蠻貊之異無不依焉則數也者其萬物之藏乎来米人豊田光文景氏以數學鳴其國従遊如雲一旦慨然發其奥筆諸書目曰拾璣算法盖其文色蔥蘢不分措之煥若瑟若温潤而澤擧之是所以名與来米矦素好數學仍嘉光之所為趣布之海内属不佞尹當題其首以於矦非一朝之歡也不敢辭之然述作之意與上木之辨自叙既已悉矣復何言哉若夫文景之業努力如斯篤專如斯該博如斯周密如斯學者繙巻輒知之亦何言哉嗚呼文景邇體君矦好學之志遠法關子傳道之義四方同好之士實式憑于此綦於大推於廣致於高盡於精而得與共君矦之惠則乃不負文景之苦心也矦亦永有績是為序
明和四年秋九月
南江川口尹當撰

【訓読】

拾璣算法に序す。

それ、数は大なり、広なり、高なり、精なり。その世教におけるも、また尚(ひさ)し。天地の大、江海の広、日月の高、度量の精、山川・藪沢・草木・人民・禽獣・魚鼈(ぎょべつ=さかなとカメ)・宮室(きゅうしつ=家屋)・舟車(しゅうしゃ)の雑(ざつ)、且(まさ)に礼の節(=礼節)を区し、楽の暢(ちょう=のびのびとしているさま)を和し、射の正を合し、御の良を直(ただ)し、書の繁を斉(ととの)えんとすること、文を待たず。ここにおいて、その至ることに致(いた=為)すなし。土地・風気の殊、華夏(かか=中華)蛮貊(ばんばく=蛮人、夷の国)の異、ありといえども、これに依らざることなし。すなわち数たるや、それ、万物の蔵(くら)なり。来米(らいべい=くるめ、久留米)人、豊田光文景氏、数学を以ってその国に鳴り、雲のごとく従遊す。一旦(=ある日)、慨然として(=心を奮起して)その奥を発し、諸書目を筆(かきしる)し、拾璣算法という。けだし、その文色、蔥蘢(そうろう=青々と茂るさま。蔥は青い。蘢は草木の茂るさま)として、いかでかこれを措(お)かん(=どうしてそのままにしておけようか)[2]。煥(あきらか)なること瑟(しつ=琴)のごとく温(おん=穏やかなもの?楽器?)のごとく、潤にして澤(たく)、これを挙ぐること、これ、名を与える所以(ゆえん)なり。来米(=久留米)侯、もとより数学を好み、よりて光(=豊田光文景)のなすところを嘉(よみ=祝う)し、趣(にわか=すみやか)に海内(かいだい=国内)にこれを布(し)く。属(このごろ)不佞(ふねい=自己の謙称、私)尹當、その首(こうべ、はじめ)に題す。以って、當(=尹當)、侯より、一朝にあらざるの歓たるや、あえてこれを辞せず。然(しかる)に述作の意与(=意図)、上木(=印刷)の弁、自叙すでに悉(ことごとく)す。當(=尹當)また何をか言わんや。もしそれ(=発語)文景の業、努力かくの如く、篤専かくの如く、該博かくの如く、周密かくの如し。学者、巻をひもとけば、たちまちこれを知る。當(=尹當)また何をか言わんや。嗚呼(ああ)文景、邇(ちか)くは君侯の好学の志を体し、遠くは関子(=関孝和)伝道の義に法(のっと)る。四方の同好の士、これに憑(よ=依)りて実式[3]し、大を綦(きわ)め、広を推(お)し、高を致し、精を尽(ことご)くし、而してともに君侯の惠を與(あた)え得れば、すなわち文景の苦心に負(まける、はじる、そむく)ことなし[4]。侯また永く績(=功績とする)あり。これがため序す。
明和四年(1767)秋九月、南江川口尹當、撰ぶ。

 

◎近藤政隆序[5]

【原文】

夫天地之間、有自然之數、君子因自然之數、而施當然之用、初無計較之技巧、有計較焉則私智也、乃不足尚矣、然萬物之不齊也、雖聡明睿智、不能徧見盡識焉、葢不由算術、何以能施其用於天下耶、是隷首之所以創算數而傳萬世也、自是以降以數學鳴世者、不遑枚擧焉、所著之書亦不鮮矣、思惟其術也、日用當行之急務、而不可一日闕者也、若夫井田經界之法、律度量衡之率、以制賦税、以営宮室、列陣結行之道、其捨此而何以哉、數學之有功于世如此、實隷首之功可不謂大乎、吾
君公、天質明敏、而蚤知此技、政務之暇嗜之、深窮其奥秘、誰能出乎其右者哉、因茲藩中鳴數學者不爲少矣、豐文景、頴悟俊偉、而自蚤歳志筭學、徧従於國中之算士、而螢雪于斯學矣、又屡扈従於 述職、而赴於
東都也、夫
東都、膺文明之運、而禮楽文物之盛也、抗衡於夏華、而鉅儒髦士、濟々乎何限、算士之富、亦為甲于海内、於是乎勤仕之暇、扣諸名家、研窮有年、稿積而盈函、甞考訂其術之幽玄精微者、乃集録之為五冊、號曰拾璣算法、乃呈
君公之電矚以請梓之、
君公閲之、辱褒賞之、造命令壽諸棗梨、乃授于、索巻弁之文、告之曰、夫衆技之奥旨者、天下之人悉秘、而不妄傳焉、然令子著此書、以博苞苴於天下萬世之算士者、其度量非衆人之識見、可以賞可以歎、於是乎、聊忘固陋、以序焉、
維時
明和丁亥孟春上澣
筑之後州 近藤政隆譔

【訓読】

拾璣算法に序(の)ぶ。

それ、天地の間、自然の数あり。君子、自然の数によりて、当然の用を施す。はじめ、計較(けいかく=はかりくらべること)の技巧なく、これを計較することすなわち私智あり、すなわち尚(たっと)しとするに足らず。然(しか)れば万物の不斉なり。聡明叡智といえども、徧(あまね)く見、尽(ことごと)く識(し)ることあたわず。なんぞ算術によらずして、何をもってよく其の用を天下に施さんや。これ、隷首の算数を創りて、万世に伝える所以なり。これより以降、数学をもって世に鳴るもの、枚挙にいとまあらず。著すところの書、また鮮(すくな)からず。思うにただ、その術たるや、日用当行の急務にして、一日として闕(か=欠)くべからざるなり。かの井田・経界の法、律度量衡の率のごときは、以って賦税を制し、以って宮室を営み、列陣・結行の道、それ、これを捨てて、何をもってせんや。数学の世に功あるは、かくのごとし。実に隷首の功、大なりと謂(い)わざるべきや。わが[平出]君公、天質明敏にして蚤(はや)くこの技を知り、政務の暇(いとま)これを嗜み、その奥秘を深く窮(きわ)む。誰(たれ)かよくそれより右に出る者かな(=君公の右に出る者はいない)。ここによりて、藩中、数学に鳴る者、少なしとなさず。豊文景(=豊田文景)、頴悟俊偉、蚤歳(そうさい=若いとき)から算学に志し、徧(あまね)く国中の算士に従いて、この学に螢雪す。また屡(しばしば)述職(=大名が将軍にお目通りして自分の職務について報告すること)に扈従(こじゅう=したがう)して、[平出]東都(=江戸)に赴くなり。それ、[平出]東都、文明の運にあたりて、礼楽・文物の盛(さか)りなり。夏華(かか=中国)と抗衡(こうこう=互いに譲らずはりあう。衡は車のくびきで、二台が道で譲り合わない意)して、鉅儒(きょじゅ=大学者。碩儒。鉅は大きい)髦士(ぼうし=大人物。髦は優れる)、濟々として、何ぞ限らん、算士の富(と)み、また海内(かいだい=国内)に甲(かしら)となるを。ここにおいて、勤仕の暇(いとま)、諸名家を扣(たた)き、研窮(=研究)年あり、稿(=原稿)を積みて、函(はこ=箱)を盈(み=満)たし、甞(かつて)その術の幽玄精微を考訂するもの、乃(すなわち)これを集録し、五冊と為し、号して曰わく拾璣算法と。乃(すなわち)[平出]君公の電矚(でんしょく=高覧。矚は見る)に呈し、以ってこれの梓(し=印刷)を請(こ=乞)う。[平出]君公、これを閲(み)て、辱(かたじけなく)もこれを褒賞し、造[6](にわかに)諸棗梨(そうり=ナツメやナシの版木)に壽(ひさし)うすることを命令し、乃(すなわち)予に授(さず)け、巻弁(=巻頭。弁は冠)の文を索(もと)む。予、これに告げていわく、夫(そ)れ衆技の奥旨は、天下の人々、悉(ことごと)く秘して、妄(みだ)りにこれを伝えず。然(しか)るに令子(れいし=二人称の敬語)この書を著し、以って天下萬世の算士に苞苴(ほうしょ=贈答品。物を贈るとき、わらに包むものを苞、わらを下にしくものを苴)を博(ひろ)むは、その度量、衆人の識見にあらず。もって賞すべし、もって歎ずべし。予、ここにおいて聊(いささか)固陋(ころう=狭い見識)を忘れ、もってこれに序す。
維時(これときに)、明和丁亥(4年(1767))孟春(=正月)上澣(=上旬)、筑の後州(=筑後の国)、近藤政隆、譔(=撰)ぶ。

 

◎豊田文景自序[7]

【原文】

拾璣筭法自叙

筭數之有用於天下也大矣哉。上而暦象日月星辰。以授人時。下而畫井原濕田野。以與民食。中而制度飲饌衣服。以教士禮。無事而不律。靡物而弗襲。固日用之急務。不可不知。不可不學。三五以降至三代。其法寖備。於是乎。朝有官卿有教。漢魏而後遂以其學鳴者何限耶。若乃我
邦之昔。亦以四科取士。而數在其一。中葉戰亂。武弁誇閥閲。以爲賤役。而委吏厨人之業。非士君子所當學。嗚呼不亦大左乎。昇平百半。奎運循環。六藝盛興。而上繇公侯。下洎士鹿。嗜此技探頤者亦不鮮矣。
東都固人文之淵藪。以弄籌樹旗鼓于轂下者。亦又何限。周旋其間。遊司天監山路君樹先生之門。私淑松良弼荒村英。而畧得傳關夫子之教。尚従中根元圭久留島義太。頗窺其室。又幸
君矦之慧敏雅質。蚤好此技。鎭藩述職。敷政餘暇。居恒以換聲色肥廿之樂者。三十年猶一日矣。雅渉猟東西古今之筭書。傳扣當今名達之門。舊日君樹先生屢來藩邸。毎譚玄理論玅秘。抵掌解頤。不知膝之促席。歴繙關夫子及諸家不傳黄巻秘書。以助研窮。眤近小臣。腆蒙 恩眷。辱同臭味。趨陪侍従。毎□壼奥披胸襟。屢賜秘稿發憤悱。外而拾名哲格言。内而求師家傳説。久積盈筐笥。唯惜經年之久。蠹朽之患。終塗塵埃。乃頃撰輯之爲五冊。顧是諸名家唾中之璣。取以爲標題。繕冩備 高覧。且請曰。斯吾家鴻寶。
君矦不厭其墮人間。則與剞劂賚天下。以傳其人通邑大都。需知己於當今乎。幸知己之弗遐棄。就闢衆妙玄門。以便後覺。吾願足焉。
君矦一目撃曰。爾夫懋弗奚嫌闤闠耶。乃許焉。於此乎序。
明和丙戌夏五月穀且
鳳岳 豐田文景謹識

【訓読】

拾璣筭法自叙

筭數の天下に有用たるや大なるかな。上は日月星辰を暦象し、もって人時(じんじ=耕作、収穫などの時候)を授く[8]。下は原濕(げんしゅう)・田野を画井(かくせい=土地を分ける)[9]し、もって民食(みんしょく=民の食物、民の糊口)を與(あた)う。中は飲饌(=飲食物、酒肴)・衣服を制度し、もって士礼を教ゆ。事なくして律せず、物、靡(な)ければ襲あらず[10]。固(もと)より日用の急務にして、知らざるべからず、学ばざるべからず。三五(=三皇五帝)以降、三代(=夏殷周)に至り、その法、浸[11](ようやく)備わり、ここにおいて、朝(=朝廷)に官卿(=官吏と公卿)ありて教ゆあり。漢魏の後、遂(つい)にその学をもって鳴るもの、なんぞ限らんや。若(そ)れ乃(すなわち)我が[平出]邦の昔もまた四科[12]をもって士を取る。而して數はその一に在(あ)り。中葉(=中ごろの世)戦乱し、武弁(ぶべん=武士。弁は武官の冠)は閥閲(ばつえつ=功績と経歴。功績のある家柄。門の左右の柱で、左を閥、右を閲という)を誇り、(数を)もって賤役にして、委吏(いり=米穀の倉庫をつかさどる役人)[13]厨人(ちゅうじん=料理人)の業、士君子の当学するところにあらず、となす。嗚呼(ああ)また大いに左[14](ひだり=不運)ならずや。昇平(しょうへい=天下太平。升平)百半[15]、奎運(けいうん=学問・文芸の発達。文運)循環し(めぐりめぐりて)、六芸、盛んに興きる。而して上、公侯より[16]、下、士鹿[17](しろく=士とふもと(麓)の人々の意か?)に洎(およ)び、この技を嗜み、探頤(たんい=奥深いところを探る。探賾(たんさく))するもの、また鮮(すくな)からず。[平出]東都(=江戸)、固(もと)より人文の淵藪(えんそう=物事の多く寄り集まるところ)にして、籌(ちゅう=算木)を弄(ろう、もてあそぶ)するをもって轂下(こくか=天子の車のもと。おひざもと。帝都。輦下)に旗鼓を樹(た)てるもの、亦(また)又(また)なんぞ限らん。予、その間を周旋し、司天監(=現在の天文台長)山路君樹(=山路主住。君樹はあざな)先生の門に遊ぶ。松良弼(=松永良弼)、荒村英(=荒木村英)に私淑して、畧(ほぼ)關夫子(=関孝和)の教えを得伝し、尚(なお)中根元圭、久留島義太に従い、頗(すこぶる、しきりに)その室を窺(うかが)う。また幸い、[平出]君侯の慧敏、雅質、蚤(わか)くしてこの技を好み、鎭藩(=藩政)述職(=将軍への職務報告)、敷政(ふせい=施政、布政)の餘暇(よか)、居恒(きょこう=ふだん。居常)より、もって聲色(せいしょく=音楽と女色)肥廿(ひかん=肥えてうまい肉やおいしい食物)の楽に換(か)えること、三十年猶(なお)一日のごとし。雅(つねに、はなはだ)東西古今の算書を渉猟し、当今の名達(=名人)の門を傳扣(でんこう=続けてたたく)す。舊日(=かつて)、君樹(=山路君樹)先生、屢(しばしば)藩邸に来(きた)り、毎(つね)に玄理を譚(かた)り、玅秘(しょうひ=妙秘)を論ず。抵[18]掌(ししょう=手をうつ)解頤(かいい=あごをはずして、大笑いする)、膝(ひざ)を促す[19]の席(せき、むしろ)を知らず。歴(ことごと)く關夫子(=関孝和)および諸家不傳(伝えざるところ)の黄巻(こうかん=書物。防虫のため黄蘗(きはだ)で染めた紙を用いたので)秘書を繙(ひもと)き、もって研窮(=研究)を助(たす)く。僕、眤近(じっこん=ごく親しい)の小臣にして、腆(あつ=厚)く[闕字](君侯の)恩眷(おんけん=恵み、恩顧)を蒙(こうむ)り、辱(かたじけなく)も臭味(しゅうみ)を同じくし(=同好の士であり)、趨陪(すうばい=走って従う)侍従、毎(つね)に壼[20]奥(こんおう=奥深いところ)を□[21]し、胸襟を披(ひら)き、屢(しばしば)秘稿を賜わり、憤悱(ふんぴ=もだえ苦しむ)を発す。外には名哲の格言を拾(ひろ)い、内には師家の傳説を求め、久しく筐笥(きょうし=竹のかご)に積盈(せきえい=つみあまる)す。唯(ただ)惜(お)しむらくは、年を經(ふ)ることの久しくして、蠹朽(ときゅう=キクイムシが食べて朽ちる)の患(うれ)い、終(つい)に塵埃(じんあい=ちりあくた)に塗(まみ)れる(=汚れる)。乃(より)て頃(このごろ)これを撰輯し、五冊となす。顧(かえりみ)れば、これ諸名家の唾中(だちゅう=つばのなか)の璣(き=丸くない珠玉。珠璣)、取りて以って標題となし、[闕字](君侯の)高覧に備えて繕写(ぜんしゃ=清書)し、且(か)つ請いて曰く、「斯(これ)吾が家の鴻寶(こうほう=宝物)なり。[平出]君侯、その、人間に墮(だ=落)するを厭(いと)わざれば則、剞劂(きけつ=印刷)に與(あた)え、天下に賚(たま=給)い、以ってその人をして通邑(つうゆう=交通に便利なまち)大都(だいと=大きな都市)に伝えしむ[22]。当今に知己を需(もと)め、幸い知己の遐棄(かき=遠ざけて見捨てる)せず。就(つ)いては衆妙(しゅうみょう=多くのすぐれた自然の道理)の玄門(げんもん=奥深い道理の門)を闢(ひら=開)き、もって後学の便(たより)とせん。吾が願い、これに足る」と。[平出]君侯、一(ひとたび)目撃して曰く、「爾(なんじ)夫(そ)れ懋(つとめ=務)たり。奚(なんぞ)闤闠(かんかい=市街の城壁と門。街の道路)(に流通すること)を嫌(いと)わざる」と。乃(すなわち)これを許す。ここにおいて序す。
明和丙戌(3年(1766))夏五月穀且(こくしょ=穀旦(こくたん)。吉日)、鳳岳、豊田光文景[23]、謹しんで識(しる)す。

 

◎清原信定跋[24]

【原文】

題拾璣算法尾

其然豈其然乎。先兪而後弗。其兪者。美人美遄與之。其弗者。擇善固執。不遽與人也。首讀豊生拾璣算法。識宇宙間如斯算書不可復有焉。而讀豊生拾璣算法。識宇宙有如斯算書。又不可復無焉。夫繇周公創制九章。代而闢焉。人而精焉。漢有洛下閎在天度。宋有祖沖之窮圓率。至胡元。郭太史招差於晷景。作授時暦。朱世傑索数于虚一發算機。於是乎。已雖獲之象。靡不可知之数。天当生吾関夫子于榑桑。勃興茲抜於淑世。探世傑蘊奥。而脱演数妙旨。推演窮源。鉤玄極賾。一時豪傑。攀龍鱗肘鳳翼。噴奇揮妙。各以其聲鳴当時者何限耶。実千載之一遇。算学之興於斯為盛。此書初褫其秘傳其意。以叩両端竭焉。乃為宇宙間如斯書。不可復有焉者。固不宜哉。雖然。其在奇奇妙々。獲真發術也。語焉而代償。筆高而紙貴。充棟汗牛。今豈□斯耶。乃為宇宙間如斯書。不可復無焉者。亦不宜乎矣。豊生南筑人。蒙 君寵 明哲。切磋良師。麗澤畏友。淬礪刮劘。終輯此書。其詳悉自叙曁凢例。又何言耶。乃請梓焉
君寶命可之。当 恩眷之腆。 勧跋臣定。乃復 命。拝 君言之辱。論向所兪弗。以告四方君子。于時
明和四年丁亥春二月望
同藩 澤崎清原信定誌

【訓読】

拾璣算法の尾に題す。

それ然(しか)り、豈(あに)それ然(しか)らんや[25]。先に兪(しかり)して、而して後に弗(しからず)[26]。その兪(しかり)は、美人(=才徳のすぐれた人、賢人)、美遄(びせん=すみやかに)して、これを與(あた)う。その弗(しからず)は、擇善(たくぜん=善をえらぶこと)固執(こしゅう=かたく執着する)[27]、遽(にわか)ならずして人に與(あた)える也。定(=この跋文を書いた清原信定のこと)首(はじめ)て豊生(=豊田文景。生は男性三人称につける呼称。君と同様)の拾璣算法を読み、宇宙の間、かくのごとき算書のふたたび有るべからざるを識(し)る。而して豊生の拾璣算法を読み、宇宙の間、かくのごとき算書の、またふたたび無くべからざるを識(し)る。夫(そ)れ周公、九章を創制する繇(より)、代(よよ=代々)、これを闢(ひら)く。人にしてこれに精しきは、漢に洛下閎(らっかこう=人名)[28]あり、天度を在(あきら)かにす。宋に祖沖之(そちゅうし=人名)の圓率を窮むあり。胡元(こげん=フビライの元朝)に至り、郭太史(=郭守敬)、晷景(きけい=太陽高度の測定)に招差(しょうさ=招差法)し、授時暦を作る。朱世傑(=算学啓蒙と四元玉鑑の著者)、虚一(きょいち=心をむなしくして一つにすること。虚壱)に索数し、算機(さんき=算数の機微)を発す。ここにおいて、已(すで)に象を獲ると雖も、数を知るべからざること、靡(ほろ)ぶ。天、当(まさ)に榑桑(ふそう=扶桑に同じ。日本)に吾が関夫子(=関孝和)を生(う)まんとす。勃興(ぼっこう)すること茲(いま)淑世(しゅくせい=末世)に抜(ぬき)んず。世傑(=朱世傑)の蘊奥を探り、而して数の妙旨を脱演し、窮源を推演し、鉤玄(こうげん=真理を究める)極賾(きゅうせき=奥深いところを極める)す。一時(いちじ=その当時)豪傑、攀龍(はんりゅう=竜につかまる。すぐれた人物につきしたがって出世すること)鱗肘(りんちゅう。攀龍と同様の意味であろう)鳳翼(ほうよく=鳳凰の翼に乗る)、噴奇揮妙(ふんききみょう=奇妙を発揮する)、各(おのおの)その声(=名声)をもって当時に鳴るもの、なんぞ限らんや。実に千載の一遇(=千年に一度遭遇する時期。めったにない好機。千載の一時)にして、算学のかく興ること盛んと為す。この書、初めてその秘傳、その意(おもい、こころ)を褫(うば=奪)う。以って両端(=物事の本末)を叩き、これを竭(つく=尽)す。乃(すなわ)ち宇宙の間、かくのごとき書のふたたび有るべからずとなすは、もとより宜(むべ)ならずや。しかりと雖も、その奇奇妙々の在、真發の術を獲(え)るや、これを語りて、代償(=本人にかわって損害をつぐなう)し、筆高くして紙貴く、充棟汗牛(=汗牛充棟)、いま豈(あに)これを□[29]んや。乃(すなわ)ちち宇宙の間、かくのごとき書のふたたび無くべからずとなすも、また宜(むべ)ならずや。豊生(=豊田文景。生は男性三人称の呼称)は南筑(=南の筑紫)の人なり。[闕字]君の[闕字]明哲を寵(ちょう=寵愛する)を蒙(こうむ)り、良師に切磋し、畏友に麗澤(れいたく、りたく=励ましあって努力する)し、淬礪(さいれい=鍛え磨く)刮劘[30](かつび)、終(つい)にこの書を輯(しゅう=編集)す。その詳しきは自叙曁(および)凡例に悉(ことごと)くす。定(=この跋文を書いた清原信定)また何をか言わんや。乃(すなわ)ち梓(=印刷)を請(こ)い、[平出]君、これを可と寶命(ほうめい=命令。宝は天子などのおこないに冠する敬語)して、当(まさ)に[闕字]恩眷の腆(おんけんのてん=あつく恩恵をさずけること)とし、臣定(=臣下の清原信定)に跋を[闕字]勧めらる[31]。乃(より)て復[闕字]命(ふくめい=君侯の命令にしたがっておこなったこと(この場合、跋を書くこと)を報告する)し、[闕字]君言の辱(じょく=かたじけないこと)を拝し、兪(しかり)弗(しからず)の向所を論じ[32]以って四方の君子に告ぐ。于時(うじ、ときに)、明和四年(1767)丁亥、春二月、望(もち=十五日)、
同藩(=久留米藩)澤崎、清原信定、誌(し)す。

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[1] 白文。和書にはめずらしく行間に罫線がある。

[2] 不分は「いかでか」「いかんせん」と読む。

[3] 実を立て、式を立て、といった意味か。

[4] 訓読不詳。「不負」で文が終わっているとは思えない。

[5] 草行体の白文。批(丶)を句読点とする。

[6] 「造」は誤読の可能性あり。

[7] 小圏(◦)だけが字の右側にある。和書には珍しく行間に罫線がある。

[8] 『書経』堯典。「暦象日月星辰、敬授人時」。

[9] ガセイと読めば絵のかいてある天井のこと。

[10] 意味不詳。典拠があるようだが不明。

[11] 原文の「寖」は「浸」の俗字。

[12] 孔子の弟子の才能を徳行・言語(弁舌)・政事(政治)・文学(学問)の四つに分類したもの。四科十哲。『論語』先進。次の「而数在其一」は、数(数学)が四科のうちの文学(学問)に含まれることを言っている。

[13] 「孔子嘗為委吏矣(孔子はかつて委吏となる)」と『孟子』万章にある。

[14] 大左という熟語は大漢和に見当たらない。大沙は、大砂漠の意。

[15] 百半の意味不明。百般(ひゃくはん)または百凡(ひゃくはん)か。どちらも、いろいろ、さまざまの意。

[16] 繇は、自と同じく「より」と読む。

[17] 原文は鹿の下部「比」が「人人」になっている。鹿の俗字。なお、鹿鹿(ろくろく)は平凡なさまをいう。

[18] 抵(テイ、シ、あたる)は扺(シ、うつ(撃))と別字だが、抵掌、扺掌は同じ意味。

[19] 促膝(そくしつ、ひざをうながす)は、ひざを詰め寄せて座ることから転じて、親しいつきあい。

[20] 壼は、壷(つぼ)、壺(つぼ)とは別字。

[21] 偏を「豈」、旁を「兪」とする。意味はおそらく「諭」であろう。ユニコードにあるかないかも不明。

[22] 司馬遷、「任安に報ずる書」。「僕誠己著此書、藏之名山、傳之其人通邑大都」。

[23] 久留米藩に豊田文景なる家臣が実在せず、藩主の有馬頼徸の仮の名前であることは、『明治前日本数学史』第三巻219ページに詳しい。

[24] 草体の白文。白抜きの批(丶)を句読点としている。

[25] 『論語』憲問。そうかも知れないが、まさかそうでもあるまい。『竪亥録仮名抄』の寛永十六年著者不明竪亥録序の末尾を見よ。

[26] ここでの文脈をカッコ内で示すと、「其然豈其然乎(という言い方が論語にあるが、これを分析すると)先兪而後弗(になる)」。

[27] 『中庸』。「誠之者、擇善而固執之者也(これを誠するものは、善を択びてこれに固執するものなり)」。

[28] 落下閎とも。天文に精通し、落下に隠棲する。顓頊(せんぎょく)暦を改めて太初暦を作る。『史記』歴書に見える。

[29] 判読できず。齧(げつ、かむ)か。Unicode:5D85)(ao)か。

[30] 劘(Unicode:5298)は、けずる(削)。刮も、けずる。刮磨、刮摩は、こすりみがく、修行する、という意味。

[31] 闕字があるので、「勧」を敬語とした。

[32] 「兪弗のところを論向(=論考)し」かもしれない。