◎勘者御伽雙紙[1]

 

◎中根彦循自序[2]

勘者御伽雙紙序

古の書(しよ)はつれづれのころほひ きゝ傳(つた)へし算問(さんもん)或(あるひ)は心にうかひし(=うかびし)捷徑(せふけい)の術 初心(しよしん)の爲(ため)に書(かき)とめをきしが 時(とき)ありて去(さる)人の懇望(こんぼう)により今(いま)梓(し)にちりばめて勘者(かむじや)御伽(おとぎ)双帋[3](ざうし)と号して おさな子(ご)のもて遊(あそ)びとす 見る人此書(しよ)にもとづきなば なんぞあさきより深(ふか)きにいたらざらんや
時に寛保(くわんほう)三年(1743)亥(ゐ)の正月日
洛陽中根保之丞法舳[4]自序

 

◎平安書林葛西某跋[5]

勘者御伽雙紙跋

洛(らく)の處士(しよし=民間人)中根(なかね)先生(せんせい)は髫鬌(てうだ=幼い頃)の時(とき)しもより 父(ちち)白山君(はくさんくん)[6]の業(げふ)を紹(つい)て此道(みち)に精(せい)を研(みがき) おもひを覃(ふか)くすること蛍雪(けいせつ)年あり ひとひ(=一日)芸窓(うんそう=学問のこと)灯下(とうか)のつれつれ平素(へいそ)見聞(けんもん)の算話(さんわ)算戯(ぎ)百餘(よ)件(けん)を集(あつ)め 毎一(まいいち)これに法術(ほふしゆつ)を附(つけ)て 至確(しくわく)に帰(き)し繕(おさめ)て三巻とし 勘者(かむじや)御伽(おとぎ)双帋(さうし)と簽(なづ)け これを笥底(してい)に投(とう)して 肯(あへ=敢)て人に眎[7](しめ)さす(=さず) 余(よ=自己の謙称)久しく先生の荊識(けいしき=教えの意か。荊はいばら、鞭)を得て 常々徃來(わうらい)するより 先生に此書(しよ)有ことを覗(うかゝ)ひ せちに(=切に)求(もてめ)て廼(すなはち)覧(み)ることを獲(え)たり 退(しりそい)て披(ひらき)讀(よむ)に其意(こゝろ)国字(かな)をもて解(げ)し 間(まゝ)圖(づ)に状(かた)どりて観覧(くわんらん)に便(たより)す 先生の志(こころざ)しは ひとへに童蒙(どうもう)を期(ご)すにあれと 其法の妙意(めうい)は深造(しんざう=深く至る、奥義をきわめる)の士も捻髭(でふし=ひげをひねる。じょうし)せんものか 余一唱(しやう)三嘆(だん)して手(て)舞(ま)ひ足(あし)踏(ふ)む 顧(おもふ)に此書の蠧腹(とふく=きくいむしの腹中)に葬(はふむら)れんことを慮(おもんはか)り 遂(つい)に先生に謁(えつ)して梓(あづさ)に鏤(ちりば)め 世に弘(ひろ)めん事を乞(こ)ふ 先生固辞(こじ)して曰 是(この)片璧(へんへき=たまのかけら)残璣(ざんき=たまの残り)固(まこと)に煥瑟(くわんしつ)の觀(みもの)[8]にひす(=比す) 然るを大方(たいほう)の家(いへ)に献(けん)せす(=せず) 秖(まさ)に二刖(じげつ=ふたつの足きり)の患(うれへ)あらんのみと 余再三(さいさむ)強(しい)て遂(つい)に剞劂(きけつ=版木を彫る、刊行)することを得ぬ 誠に初学(しよがく)の士(し)是(これ)によりて其霊臺(れいたい=魂のあるところ、こころ)の璞(ばく=あらたま)を彫琢(しうたく)せす(=せず)何(なん)そ万鎰(まんいつ=多くの貨幣。鎰は二十両、二十四両とも)の寶(たから)ともならさらんや[9] 此(これ)先生撰述の初志(しよし)なり
平安 書林 葛西某 謹題(=謹んで題す)

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[1] 小寺裕氏所蔵。刊記は「寛保三癸亥年正月吉祥日 寺町通五條橋詰町西側 平安 書林天王寺屋市郎兵衛星壽梓」。

[2] 漢字かな交じり文。ほとんどの漢字に振り仮名つき。

[3] 帋は紙の異体字。

[4] 法舳は中根彦循の号。

[5] 漢字かな交じり文。ほとんどの漢字に振り仮名つき。

[6] 白山は中根元圭の号。

[7] 眎は、ユニコード770e

[8] 典拠不詳。

[9] 『孟子』梁恵王下。「雖萬鎰、必使玉人雕琢之」。