◎算法点竄指南(山田治助、大原利明)[1]

 

◎北山老人序[2]

 

筭法點竄指南序

點竄術者関流數學之秘蘊也推其原藍出於西洋筆算援一枝筆可以計天地間事矣蓋筭術古昔謂之九九術布置筭器於盤上施乗除之方元末明初之際始有筭珠盤便捷最宜人以従用焉及後利西泰来自西洋而入于中土以筆易筭器其法妙甚矣至點竄術妙之又妙者也山田治助性好筭數精力勉強師大原勝右衛門忘眠食於此技窮其秘蘊大原者関流巨擘今時此技名家也二人相謀著書一篇名曰點竄指南使関流五傳正統日下貞八者校定之為全書雖初洩関門點竄之秘其有功學此業者不小々也介川俣生求序於予々閲之其行文之間不盡従彼邦法蓋我 邦中古有一種此軆要之此書非必使彼邦人覧之毎句既有挑乙回旋之讀則又無謬讀之患焉不一々改之亦可謂達者矣

文化七年冬十二月初三

北山老人撰

 

【訓読】

算法点竄指南序

点竄(てんざん)術は関流数学の秘蘊(ひうん=奥義)なり。その原(=源)を推(お)すに、西洋の筆算に藍出(らんしゅつ)[3]し、一枝(いっし)筆を援(ひい)て[4](=筆を持って字を書いて)以て天地間の事を計るべし。蓋(けだ)し算術は古昔(こせき=むかし)これを九九術と謂い、算器(=算木のこと)を盤上に布置(ふち)し、乗除の方(=法)を施す。元末明初(=元代の末、明代の初め)の際、始(はじめ)て算珠盤(=そろばんのこと)あり、便捷(べんしょう=動作がすばやい。敏捷)最も宜(よろ)し。人、以て従(したが)って焉(これ)を用ゆ。後(のち)利西泰[5]、西洋より来(きた)りて中土(=中国)に入るに及んで、筆を以て算器に易(か)え、その法妙、甚(はなは)だし。点竄の術に至りては、妙の又(また)妙なるものなり。山田治助、性、算数を好み、精力勉強、大原勝右衛門を師とす。眠食(みんしょく=眠りと食事)をこの技に忘れ、その秘蘊を窮む。大原は関流の巨擘(きょはく=親指、頭目)、今時(こんじ=このごろ)この技の名家なり。二人、相謀(そうぼうし、あいはかり)て書一篇を著す。名づけて点竄指南と曰(い)う。関流五伝正統、日下貞八[6]という者をして、これを校定(=校訂)せしめて全書(=完全な書)となす。初めて関門(=関流)点竄の秘を洩(も)らすといえども、其(それ)、この業を学ぶ者に功あること小々(しょうしょう)ならず。川俣生を介して序を予に求む。予、これを閲するにその行文(こうぶん=文章)の間、尽(ことごと)く彼(か)の邦(くに)の法に従わず。蓋し我が〔闕字〕邦、中古(=上古につぐ時代)、一種この体あり。これを要(=要約)するにこの書、必ずしも彼の邦の人をして、これを覧(み)さしめるに非ず。毎句、既に挑乙(=挑穵(ちょうあつ)。掘り浚(さら)う)回旋(=旋回)の読みあれば、則ちまた謬読(びゅうどく=誤読)の患(うれ)い無し。一々これを改めず。また達者(たっしゃ=達人)と謂うべし。

文化七年(1810)冬十二月初三(=三日、月の初めの第三日)

北山老人(=儒者の山本北山)撰ぶ

 

 

◎山田利政序[7]

 

筭法點竄指南序

點竄者數家臨題施術之良法也蓋自天元演段以至諸約招差翦管圓理弧背無不得之于斯焉予入梅田大原先生之門學之有年矣點竄實関門之妙旨也美法之書雖自古多有之然皆徒述大畧耳至其術之所以起則未必了々也或有言及之者亦言簡而意微矣初學難通暁於是予與同門之徒一々尋釋之圖鮮之彙為三冊術之所由起可一覧而瞭矣將授之剞劂應同好之求乃質大原先生々々曰吁置之術者活法也在得其人而傳之也貽之後世恐不免識者議既而初學求之特切不得不上梓矣雖乃背先生之意来識者之謗初学囙此鉤玄奥探蘊頤亦可期耳

文化庚午冬十一月念五日

鈴山 山田利政撰(印)(印)

 

【訓読】

算法点竄指南序

点竄は数家、題(=問題)に臨んで術を施すの良法なり。蓋(けだ)し天元演段より以て諸約、招差、翦管、圓理、弧背に至るまで、これを斯(ここ)に得ざるということ無し。予(=私)、梅田大原[8]先生の門に入って、これを学ぶこと年あり。点竄は実に関門(=関流)の妙旨なり。美法の書(=立派な方法の書)、古(いにし)えより多くこれ有りと雖(いえど)も、然(しかれ)ども皆、徒(いたず)らに大略を述べるのみ。その術の起こる所以(ゆえん)に至れば、未だ必ずしも了々(りょうりょう=了然)たらざるなり。或(あるい)はこれに言い及ぼすもの有るも、亦(また)言(げん)簡にして、意(い)微(かす)かなり。初学、通暁(つうぎょう=通じ悟る)に難(かた)し。是(ここ)に於いて、予、同門の徒と一々これを尋釈(じんしゃく=たずね解釈する)し、これを図解し、彙(あつ)めて三冊となす。術の由(よ)りて起こるところ、一覧して瞭(=明瞭)すべし。将(まさ)にこれを剞劂(きけつ=版木の彫刻)に授けて、同好の求めに応ぜんとす。乃(すなわち)大原先生に質(ただ=質問)す。先生曰く、「吁(ああ)これを置け(=そのままにしておけ)。術は活法なり。その人を得て(=それにふさわしい人を得て)これを伝えるに在(あ)り。これを後世に貽(おく=送)れば、恐(おそら)くは識者、議(=質疑)を免(まぬが)れざらん」。既(すで)にして初学、これを求むること特に切(=切実)なり。梓に上さざるを得ず(=刊行しないわけにはいかない)。乃(すなわ)ち先生の意に背(そむ)き、識者の謗(ぼう、そしり)を来(き)たすと雖も、初学、これに因(よ)りて、玄奥(=奥深いもの)を鉤(さぐ)り、蘊頤[9](=蘊賾(うんさく)。奥深いところ)を探らんこと、亦(また)期すべきのみ。

文化庚午(文化7年(1810))冬十一月念五日(=二十五日。念は廿)、

鈴山、山田利政撰ぶ。

 

 

◎小泉理永序[10]

 

算法點竄指南序

算数の有用、天下に於るや、大なる哉。知らずんばあるへからず。學ばずんばあるべからず。、業を大原利明先生に受て、點竄の奇々妙々を知る。同門の徒と同編同校して三冊とす。號て算法點竄指南と曰ふ。海内(かいだい)同嗜の初學を導くゆゑんなり。書中、繁を芟(か=刈)り、要を括(くく)るものに非ず。解中、蹊條(=道すじ)迂遠なるも有り。唯、得易すからんことを憶ふ而已(のみ)。或るひと問ふ、點竄と名くる義如何。、對(こたえ)て曰、三國志巻中、曹操、韓遂〔に〕與る書[11]に多く點竄す。其の註に曰、點は滅去〔を〕謂、竄は添入〔を〕謂也[12]となり。凡そ此の法題に臨んで答術を施すときは、一算を置て傍書し、或は添入し、或〔は〕滅去〔す〕る。是れ此の謂(いい)乎(か)。

文化庚午(文化7年(1810))雷乃収聲[13]

小泉理永寧夫撰(印)(印)

 

 

◎神谷定幸蔵後序[14]

 

點竄指南後序

筭也非至誠不得入其室臨盤布籌起一籌而可以測度天地矣然至謬毫釐違以千里况於其違雖不學之人知之其不可自欺及欺人至乎是夫六藝亡矣無得傳焉幸而數之一藝存于今然數之為術無精吾 東方昔黄帝使隷首作筭九九之數起焉爾来至漢張蒼劉歆之徒窺其墻元末自郭守敬發天元一術此技至微然要之不過勾股弦矢方田之術吾 邦 延天之際有關孝和出實始使此道微婉蘊奥與日月争先後世崇信為關流之祖以是也没後百歳異端競起竊其術附己意鼓而牽之學者惑而不察終至澠淄混清門生金杉清三郎天資聰敏嗜數受業於吾家父年已耳順矍鑠不倦壮哉今也其門人某与大原氏門人某等合力著點竄一篇携来示余為請一言余閲之能發關氏之玄闢彼異端清其流非啻清其流至誠精巧泝其源且裨益乎後世不鮮少可謂關氏之忠臣矣彼与筭棗實傲米眩惑於人之徒相去也天壌於是乎好其志作之序文化庚午冬十二月 桐園 神谷定幸蔵撰

 

【訓読】

点竄指南後序

算たるや至誠(=まごころ)にあらずんば、その室に入り得ず。盤に臨んで籌(ちゅう=算木)を布(し)き、一籌を起こして以て天地を測度すべし。然れども毫釐(ごうりん=わずかな量)を謬(あや)まるに至れば、違(たが)うに千里を以てす[15]。况(いわ)んやその違いにおける、不学の人と雖もこれを知れば、其(それ)、自らを欺(あざむ)き、及びて人を欺く[16]べからず。ここに至り、夫(か)の六芸(=礼楽射御書数)滅び、伝え得ること無し。幸にして数の一芸、今に存す。然れども数の術をなすこと無精(ぶしょう=なまけること)なり。吾が〔闕字〕東方、昔(むかし)黄帝、隷首をして算九九を作らしめ、数、起こる。爾来(じらい=以来)漢の張蒼(ちょうそう)、劉歆(りゅうきん)の徒に至り、その墻(しょう=垣根。墻は牆の俗字)を窺(うかが)い、元末(=元の時代の末)郭守敬(かくしゅけい)より天元の一術を発し、この技、微(=微細、微妙)に至る。然れどもこれを要(=要約)するに、勾股弦矢、方田の術に過ぎず。吾が〔平出または闕字〕邦〔闕字〕、延天(=延宝、天和)の際、関孝和の出(い)ずるあり。実に始めてこの道をして微婉(びえん=文辞が微妙であでやか)せしめ、蘊奥(うんのう=奥深いところ)、日月(じつげつ)と先を争う。後世に関流の祖として崇信(=崇拝)す、以て是なり。没後百歳(=年)異端、競(きそ)い起こり、その術を竊(ぬす=盗)み、己(おの)が意を附(ふ)し、鼓(つづみう)ってこれを牽(ひ)く[17]。学者、惑(まど)いて察せず。終(つい)に澠淄(べんし、めんし=澠池(べんち)が黒ずむ)混清(こんせい=濁り澄む)に至る。門生(=門下生)金杉清三郎、天資(=天性、生まれつき)聰敏(=聡明)、数を嗜(たしな)み、吾が家父(=父親。神谷定令のこと)に受業す。年、已(すで)に耳順(じじゅん=六十歳)、矍鑠(かくしゃく)として倦(う)まず。壮(そう)なる哉(かな)。今、その門人某(ぼう、なにがし)と大原氏門人某(ぼう、なにがし)等(ら)、力を合せ、点竄の一篇を著す。携(たずさ)え来り、余に示し、一言を請う為(あり)[18]。余これを閲し、能(よ)く関氏の玄(=玄妙)を発し、彼(か)の異端を闢(ひら=辟)き、その流を清む。啻(ただ)にその流を清むにあらず。誠(まこと)に精巧に至り、その源を泝(さかのぼ)り、且(かつ)後世に裨益(ひえき)すること鮮少(せんしょう=少ない)ならず。謂(い)いつべし、関氏の忠臣なりと。彼と算棗(さんそう=算木。棗はナツメ)、実に人を傲米(ごうまい=傲邁。おごり高ぶる)眩惑(げんわく)するの徒を相去(あいさ)る也。天壌(=天と地)ここにおいて、その志を好み、これを作り、序す。文化庚午(文化7年(1810))冬十二月、桐園、神谷定幸蔵撰。

 

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[1]東北大学岡本則録旧蔵書。東都書林慶壽堂、発行。内扉は「梅田先生閲、関流・算法點竄指南、大原・金瘁i=金杉)門人編」。

[2] 返り点、送り仮名つき。

[3] 『荀子』勉学、「青取之於藍、而青於藍」。

[4] 援筆成文(ふでをひけば文をなす)は、筆を持てば直ちに文をなすこと。『唐書』后妃上、徐賢妃伝。唐の太宗の妃、徐恵の賢を称したもの。

[5] 利瑪竇(マテオ・リッチ)のこと。上海辞書出版社の『辞海』第4巻の利瑪竇の項に「字西泰」とある。字(あざな)は実名以外のよび名。梅文鼎『暦算全書』巻1の「論西暦亦古疏今密」にも「利西泰」が見える。

[6] 日下誠。坂部廣胖の『点竄指南録』に「点竄指南序」を書いている。

[7] 返り点、一部に送り仮名、竪点つき。

[8] 梅田は大原利明の号。

[9] 頤(イ、おとがい、あご)と賾(サク(漢音)、シャク(呉音))はしばしば混用される。賾は「奥深い道理」の意。左側に「ノ」が付いた一画多い頥は俗字。𦣝(あご)の代わりに口を用いた嘖(サク、シャク、さけぶ)も賾に同じ。

[10] 田村三郎氏所蔵・文政九年本。漢字カタカナまじり文。ここではカタカナをひらがなに改め、句読点を補った。

[11] 三國志巻中曹操與韓遂書は漢文表記。返り点と送り仮名つき。『三国志』魏書の武帝紀、建安十六年の「他日、公(=曹操)又、遂(=韓遂)に書を與(あた)えて多く點竄するところ、遂が改定するものの如くす」を指す。

[12] 點謂滅去竄謂添入也も漢文表記。返り点と送り仮名つき。この文は、斐松之の注にはない。『爾雅』釋器の注疏に「筆を以て字を滅すを點となす」、また『正字通』に「竄は文字を改易す」とある。三国志の注釈本を幾つか調べたが、「點謂滅去竄謂添入」と書いたものは見当たらなかった。

[13] 雷(らい、いかずち、かみなり)の声を収む日。秋分を過ぎた8月の日のこと。

[14] 白文。神谷定幸蔵は神谷定令の子。

[15] 『史記』太史公自序。「毫釐之失差以千里(毫釐の失、差(たが)うに千里をもってす)」。『礼記』の経解にも同様の文がある。『研機算法』関孝和跋、『探賾算法』藤田貞升跋にもみえる。

[16] 自欺欺人は四字熟語。自分の本心にそむき、他人をも欺くような生き方。自欺は『大学』誠意章(「小人閑居して不善をなす」や「心は広く体は胖(ゆたか)に」がある章)に見え、『朱子語類』巻16に朱子の詳しい注釈がある。『阿Q正伝』では阿Qの性格が自欺欺人。

[17] 鼓の訓に「つづみうつ」がある。鼓而牽之は、(軍を)にぎやかに前へ引っ張る、の意。

[18] 「ために一言を請う」と読むのかもしれない。